第0章 世界で一番有名な「サロンケバヤ」
シンガポール航空の客室乗務員が着用する制服で「サロンケバヤ」と呼ばれる。
シンガポール航空の前身である、マレーシア・シンガポール航空では、1963年から1968年まで国際線の制服として、マレーシアやインドネシアで一般的に用いられる、襟と襟の間に別布がついているクバヤコタバルあるいはクバヤバンドンと呼ばれる形のクバヤが用いられていた。1968年に、フランスのデザイナー、ピエール・バルマン(1914-1982)が襟を取り去って、丸首にした現在の形の「サロンケバヤ」を生み出した。1972年にシンガポール航空は独立し、ピエール・バルマンのモデルを引き継いだ。以来約50年間、ほとんど変化しないまま使用されている。
第1章 シンガポール:新たなる自由港
マレー半島の最南端に位置する、交通の要衝シンガポール。1924年に正式にイギリス領となって以来、関税のない自由港として急速な発展をとげ、人口も飛躍的に増大した。
インド洋をわたって港湾都市で取引された貿易品のなかで、最も重要なもののひとつがインドの染織である。アラブ、インド、ヨーロッパの商人たちは香辛料を得るために、インドでその土地の好みにあわせた染織品を注文して作らせた。本章で紹介するパッチワークのローブには、ヨーロッパやインドからの輸入品や地元で作られたものまで、さまざまな布が用いられており、多様な染織品が流通していたことがわかる。
第2章 更紗×インド洋スタイル、その発展
アジア海域の港では、ポルトガル人の来航の前から何世紀にもわたって、多くの民族がダイナミックに交流をしていた。1510年にポルトガルがゴアを占領したのち、ポルトガル植民地のネットワークによって、インドからマレー諸島の東端までが結ばれることになった。本章で紹介する上衣は「バジュパンジャン(長い上衣の意)」あるいは「クバヤパンジャン」と呼ばれる。直線裁ちで、首の後ろから前身頃の裾まで襟が縫い付けられ、袖は筒袖で脇に火打ちがつけられている。この形の上衣は広くインド洋海域で着用されており、同じ形でインド更紗を用いたものも多く残されている。

19世紀後期あるいは20世紀初期
福岡市美術館(リー・キップリー夫妻寄贈)
腰衣(サロン)
19世紀後期あるいは20世紀初期
リー・キップリー夫妻コレクション
Late 19th century or early 20th century
Fukuoka Art Museum, Japan, Gift of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Sarong
Late 19th century or early20th century
Collection of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Photography by Chris Yap.
第3章 レース:コロニアルな美学
19世紀の半ばには、白いレースのクバヤと高価なバティックのサロンを身につけるのは、オランダ領東インドのヨーロッパ人とユーラシアンの特権とみなされていた。ヨーロッパ人とユーラシアンの女性が身につけた白いクバヤの特色は、優美なレースで飾られていることである。レース編みは、16-17世紀にインドのゴアを経由してアジアにもたらされ、南インドやスリランカ、マラッカの現地の人々の間で流行した。白いクバヤを好んだヨーロッパ人とユーラシアンの女性たちが洋装に移行するのと当時に、プラナカンの女性たちが白いクバヤを着用しはじめた。
第4章 ファッションが語る近代的アイデンティティ:祖国との新たな関わり
20世紀前半に革命をもとめて中国本土で盛り上がった「中華ナショナリズム」の動きは、シンガポールにも直接的に届いた。プラナカンたちは祖先の母国である中国の動向と、英国臣民としての立場との間に立たされ、なんらかの態度を示すことを余儀なくされた。バジュパンジャン、ヨーロッパ人やユーラシアンに好まれたレースのクバヤ、中国の衣装、洋装といった選択肢のなかから、女性たちは何を身にまとうかを、戦略的に選び取った。ファッションにおけるそうした影響も多岐にわたり、新しい要素がバジュやクバヤに取り込まれた。

福岡市美術館所蔵、リー・キップリー夫妻[シンガポール]寄贈
腰衣(サロン) 1910-1920年代
リー・キップリー夫妻[シンガポール]所蔵
Fukuoka Art Museum, Japan, Gift of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Sarong / 1910s - 1920s
Collection of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Photography by Chris Yap

福岡市美術館所蔵
リー・キップリー夫妻[シンガポール]寄贈
腰衣(サロン) 1900–1920年代
リー・キップリー夫妻[シンガポール]所蔵
Fukuoka Art Museum, Japan, Gift of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Sarong / 1900s–1920s
Collection of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Photography by Chris Yap
第5章 驚きの技術革新:プリント布と新しい染料
19世紀後半のバジュパンジャンは天然染料で染められた、地味な色合いのものであったが、1910年代には、バジュパンジャンにも「近代化の波」が押し寄せてきた。ヨーロッパからもたらされた、木綿のオーガンジーである。19世紀の半ばに初の合成染料が開発されてからは、染料の数は一気に増加した。プラナカンの女性たちはヨーロッパから届いた明るい色彩の花模様のオーガンジーに魅了された。1930年代になると、バジュパンジャンにもサロンにもさらに色彩が氾濫するようになる。ドイツの化学染料がバティックの製作に導入されたことで、鮮やかでありながら、ニュアンスに富んだ中間色が生み出された。
第6章 ファッションの鏡:ハイブリッドなジュエリーと靴
18世紀の記録から浮かび上がるプラナカンの女性の姿のひとつが、進取の気性に富んだ事業家としての側面である。夫が地元と中国を行き来して不在がちであったことから、女性は自立している必要があった。醸造所や精糖所、服地屋や質屋などの事業のオーナーとして、富を築き、蓄積することができるようになった女性たちは、輸入品であれ、地元のものであれ、流行の贅沢品を手にすることができた。18世紀の記録には、当時のプラナカンの女性が所有していた財産のなかで、ジュエリーに相当するものとして、へアピン、イヤリング、ブレスレット、アンクレット、ベルトバックル、ベルト、指輪、などがあげられている。
第7章 ミシンの芸術と色彩のモダン
2技術の進歩がもたらしてきたサロンクバヤの進化の最後のイノベーションは、ミシン刺繍の導入である。これまでは、クバヤにつける手編みのレースを模倣して、手縫いのカットワークが施されてきた。戦後レースの値段が高騰したことから、レースを模したカットワークをミシン刺繍で行うようになった。ミシンの導入によってカットワークを施すことが、手縫いほどに時間をかけずにできるようになり、レースを縫い付けていた時代には望むべくもなかった、まるでクバヤ全体がまるでレースできているかのような美しいクバヤが創造された。

プラナカン博物館
腰布(カインパンジャン パギソレ)
[カインホウコウカイ] 1950年代
リー・キップリー夫妻コレクション
Peranakan Museum, Singapore, Gift of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Kain panjang pagi sore “kain hokokai” / 1950s
Collection of Mr. and Mrs. Lee Kip Lee, Singapore
Copyright of Asian Civilisations Museum, Singapore.