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福岡市美術館ブログ

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カテゴリー:コレクション

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梅雨あけの頃

今月24日、ようやく福岡管区気象台が、九州北部の梅雨明けを発表しました。今年は平年に比べて梅雨入りも梅雨明けも遅く、今も梅雨の時期の名残を感じる蒸し暑さです。現代人である私達はクーラーが手放せない生活を送っています。

ところで、都市部では建物やアスファルトに直射日光があたり、うだるような暑さと湿度で不快指数が高くなりがちですが、ひとたび山間部に足を踏み入れてみると、驚くほどひんやりと快適に過ごせる場合があります。

今回ご紹介するのは、ブログのタイトルでもある水上泰生の≪梅雨あけの頃≫です。
中央にバショウ科植物の葉が大胆に広がり、周辺に生えた竹林には南国の鳥であるハッカチョウと雀がとまっています。植物は青々と繁り、鳥はさえずり、生物たちの生命力が満ち溢れた画面となっています。


ハッカチョウは中国南部と東南アジアといった熱帯地方に分布する鳥で、バショウ科の植物も竹も、ある程度湿度が高くないと育ちません。そのため、この風景はそれなりに湿度が高いことが推測されます。それでも、ほどほどに生えた竹林に光が差し込むことで、明るい画面に、どこか涼しげな温度が感じられるようです。この画面の中に飛び込むことが出来れば、クーラーいらずの非常に快適な空気を味わうことが出来る、そんな気がしてなりません。

こちらの作品、近現代展示室Aにて8月25日(日)まで展示してます。

(学芸員 作品保存担当 渡抜由季)

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「藤森静雄と『月映』の作家」の楽しみ方

近現代美術係の忠です。2階のコレクション展示室で開催中の、「藤森静雄と『月映』の作家」(2019年5月30日~8月25日、コレクション展示室 近現代美術室B)を担当しています。
藤森静雄(1891-1943)は、久留米出身の版画家です。同郷の画家・青木繁との出会いをきっかけに画家を志し上京し、東京美術学校に入学、学生時代に木版画を作りはじめ、新聞小説の挿絵や童話制作など幅広く活躍しました。
このたびの展示は、そんな藤森が青春時代、田中恭吉、恩地孝四郎という二人の同志とともに作り上げた木版画と詩の同人誌『月映』を中心に作品と資料合わせて66点を紹介しています。
この記事では、展示の楽しみ方を、偏愛を込めて3つご提案したいと思います。

 

1. ほの暗い会場で『月映』のムードにひたる
「藤森静雄と『月映』の作家展」の展示室は、他の展示室に比べて、会場内の照度が低いです。これは、版画の作品が紙を支持体とするため、光や熱による劣化を防ぐための措置です。したがって、もともと意図したものではないのですが、結果としてこの薄暗さは、展覧会のテーマに合っているのではないかと思っています。というのは、『月映』には、その名の通り、月夜のムードが漂っているからです。
第1輯の冒頭に掲載された、田中恭吉による「つくはえ序歌」はこのような内容です。

 

  しづやかに えみうたうもの
  なみだぐみ かきならすもの
  しらがねの つきてるつちに
  しめやかに つどひたるもの

 

月の光の下に集い、木版画や詩を通して、「笑み」「涙」を表現するというコンセプトを3人は共有していました。月や夜のキーワードは作中にも表れ、藤森静雄は天体運動をモチーフにした作品もあります[No. 23《永遠の領》ほか]。彫ったところが光になり、残したところが影になるという版画の特徴も夜の闇と親和性があります。
全体にぼんやりと作品が浮かび上がるように見える照明が、月の下に集まる三人、というイメージと重なって感じられます。

「藤森静雄と『月映』の作家展」 展示風景

2. 資料から若き日の藤森静雄への想像を膨らませる
「藤森静雄の上京」のコーナーでは、ご遺族より寄贈を受けた、青年期の紙資料を展示し、藤森静雄の面影を辿る手がかりとしました。なかでも今回は、「汽笛の響」と「アルバム」に注目します。
「汽笛の響」(1908年)は、藤森の中学時代の日記です。彼は当時「つぼみ」というペンネームを名乗り、学校での出来事や友人たちとの放課後のエピソードをつづっていました。タイトルをつけ、表紙もきちんと作っているのがかわいらしいですが、挿画にも特徴が表れています。学帽を被った青年や、しゃれた着物姿の女学生を軽やかにとらえた絵柄が、ところどころに挟み込まれています。当時の雑誌は文章とイラストレーション(コマ絵)を組み合わせた紙面構成が一般的で、藤森も竹久夢二などが手掛けたコマ絵を見ていたのではないでしょうか。
展示の都合上、見開き2ページしかお見せすることができませんが、他のページにもたくさんのイラストレーションが配されています。藤森は上京後、仲間に「雑誌を作ろう」と持ち掛けますが、日記帳からは、中学時代からすでに創作意欲がみなぎっていたことがわかります。

『汽笛の響』1908年 墨、インク、紙

手作りのアルバムにもご注目ください[No.5 1913年のアルバム]。
アルバムには、上京後の藤森の交友関係がうかがわれる写真が多く貼り込んであります。藤森は1913年当時、美術予備校にほど近い東京の谷中・三崎町に住んでいました。  
「à sansaky」(三崎にて)と書いてあるページには、すぐ近所の下宿に住んでいた田中恭吉や予備校仲間たちが写っており、下宿の庭で家族ぐるみで集まるなどして交友関係を結んでいたことがわかります。(展覧会では、焼き増しされていた写真を展示しています[No.3 写真資料])

アルバムに挟み込まれていた写真。③④が藤森。

藤森のポートレートは、こちらを覗き込むような表情でカメラを見据えており、闘争心あふれる青年時代の藤森の人柄が伝わってきます。
余談ですが、藤森と恩地孝四郎は面影が似ていて、待ちゆく人に「アラ!双子よ、あの二人」と言われたこともあったとか。会場内の集合写真でお確かめください。

 

3. 人体の表現を比較する
『月映』の収録作品には、しばしば肉体が描かれています。
よく知られているように、田中恭吉は当時不治の病とされていた肺結核を患い、療養先の和歌山で、藤森・恩地は手紙でやりとりしながら作品の制作・編集を続けました。1915年10月、23歳の若さで亡くなるまで、三人は共同作業のなかで『月映』を刊行し続け、思うままにならない身体を持つ苦しみと、ときにそれを忘れさせてくれる生の喜びをあらわすため、作品の中に身体を描きこんだのではないでしょうか。
人体をどのようにデフォルメするか、ポーズをとらせるか、その表現は三者三様で、個性の違いを見ることができます。均整の取れた鍛えられた身体ではなく、ねじれた身体、もだえる身体、地面に伏す身体など、その表現にはバリエーションがあります。
全身に緊張をみなぎらせているものもあれば、のびのびと四肢を伸ばしているものもあり、そのポーズは作家自身の内面を語っているようです。

恩地孝四郎《ただよへるもの》(『月映』Ⅲ所収)1914年

1914年の9月から1915年の11月まで、わずか1年余りで終刊した『月映』。
作家ごとの特徴は異なり、その後の展開もそれぞれなのですが、会場にずらりと並んでみると、三人の作品にはどこか共通するトーンを感じ取ることができます。それは、版画という媒体で心の中を表現するという新しい挑戦に取り組む高揚感を共有し、互いに切磋琢磨した証なのではないでしょうか。ぜひ会場で、三人の化学反応をお確かめください!

(学芸員 近現代美術担当 忠あゆみ)

コレクション

松永耳庵の茶、その再現に挑む

1階・松永記念館室にて「松永耳庵の茶」展を開催中です(7/28まで)。松永耳庵翁の茶事・茶会に実際に用いられた茶道具を、エピソードとともに紹介するものです。趣旨はシンプルなのですが、今回の展示構成にはけっこうな労力を要しました。そのあたりの事情も含め、本展をより楽しんでいただくために知っておいていただければ、と思うことを書きつらねてみます。

 

◆耳庵・松永安左エ門と「松永コレクション」
戦前戦後の電力業界で活躍し「電力王」「電力の鬼」などと称された松永安左エ門(1875-1971)は、還暦を迎える頃から耳庵と号し、茶の湯の世界に足を踏み入れました。

やると決めたら徹底して、やる!持ち前の実行力をもって破竹の勢いで茶道具の名品を蒐集し、戦中にあっても茶に明け暮れ、やがて益田鈍翁、原三溪とならび称される高名な茶人となったのでした。

その過程で蒐集した古美術品は、日本・東洋美術の名品コレクションとして屈指の質を誇ります。主に戦前に蒐集したものが東京国立博物館に、戦後に蒐集したものが当館に寄贈されています。当館では「松永コレクション」と呼ばれています。

ちなみに当館職員の多くは松永翁のことを「松永さん」と呼んでいます。「うちのおじいちゃん」と呼ぶ人までいます。偉人に対して失礼かとも思われるでしょうが、なぜかそう呼んでしまうのです。鬼とまで呼ばれた男のことを知れば知るほど、その柄の大きさに感じ入り、底なしの懐の深さに吸い込まれ、自然と親しみを抱いてしまうのです。

松永耳庵

◆茶風と道具組
松永さんの茶風はといえば「荒ぶる侘び」などと形容される(『芸術新潮』2002年2月号)ほどに、豪胆なイメージで語られることが多いです。それもそのはず、点前などの作法については、茶匠から一定の手ほどきを受けることはあったものの、ついに所定の作法を身に付けることはなく、最後まで我流を貫いたようです。あるとき招客から流派を聞かれ、「新派、柳瀬流です」と冗談めかして答えたそうです(この「柳瀬」とは、埼玉に構えた自身の別荘「柳瀬山荘」に由来します)。人はそれを「耳庵流」などと呼びました。ついには松永さんを指導したはずの茶匠が「耳庵流」の影響を受けて作法に変化をきたしてしまったという逸話もあります。

よく言えば個性的、悪くいえば無作法な松永さんの茶。それはどこまでも簡素な侘びの美意識に基づくものでした。原三溪や仰木魯堂の薫陶を受け、因習的な作法にこだわらず、生活に密着した実践的な茶で客人をもてなしたのでした。それを体験した人々は、儀礼的、形式的な美を超越した類のない魅力に引き込まれ、喜び、親しみ、笑い、敬い、様々に語り継ぐことで、一大茶人を育んだといえるでしょう。

では、松永さんは実際にどんな道具組で茶事を行ったのでしょうか?それを明らかにするためには、残された記録(茶会記)を読んで情報を整理することと、記録と現存する美術資料とを照合してゆくことが必要です。実はこれがあまり進んでいません。

戦前については『茶道三年』『茶道春秋』という自著の中で、松永さん自身の茶会記や独自の茶論が記述されています。いっぽう戦後については、電力事業再編成の主導役に抜擢されるなど多忙な日々にあって自身の茶会記を残していないか、あるいは残していたとしても、その存在は明らかになっていません。

 

◆『雲中庵茶会記』の重要性
前述の通り、当館の松永コレクションの殆どは戦後の蒐集品であるため、松永さん自身の記録から茶事の道具組を再現することは現状において不可能です。そんな中、よりどころになるのが、松永さんの茶事に招かれた人が残した記録です。なかでも仰木魯堂の弟・政斎が著した『雲中庵茶会記』は、松永さんをはじめ同時代の名だたる近代数寄者の茶事が記録されています。仰木兄弟はともに松永さんと親密に交流したのですが、とくに政斎さんは戦時中、松永さんの別荘「柳瀬山荘」に疎開し、戦火におびえる日々の中でも、松永さんの茶にとことん付き合いました。戦後も、小田原へ引っ越した松永さんのもとへ何度も招かれ、耳庵流のもてなしを何度も体験しました。

『雲中庵茶会記』には、松永さんの動向を客観的に、かつ実時間的に描写した記述が非常に多く、茶事の様子を垣間見られるばかりか、人間・松永耳庵の横顔を生き生きと伝えてくれます。戦後の蒐集品を主とする当館の松永コレクションがどのように茶事で用いられたかを再現する上では、必読の書なのです。しかし本書は非売品の影印本(原書を写真撮影して印刷したもの)が知られるのみであるため、研究資料として広く活用されるには翻刻(活字化)が強く望まれます。

『雲中庵茶会記』

そこで数年前から本書の翻刻に着手しました。できた分から当館の紀要(当館ホームページからダウンロードできます。第5号、第6号をご覧ください)に掲載しています。でも本書は総じて1200頁を超すぶ厚さであり、今のペースだと私が定年退職するまでに全頁翻刻を果たせるかどうかも微妙なところ。まぁ、出来るだけ頑張ります!ともあれ全体の粗読みは行い、目次づくりや記録された茶事の席主、招客、用いられた主な道具の情報を整理する作業は地道に進めています。

 

◆「松永耳庵の茶」展の試み
このたびの「松永耳庵の茶」展は、『雲中庵茶会記』の読書、翻刻をする中で得られた成果の一部を発表する場として企画したものです。政斎さんが記録した膨大な道具組の情報の中から、当館の松永コレクションに同定される作品を抽出し、出陳リストを構成。今回は4の茶事について、断片的ではありますが可能な限りの再現を試みました。(出陳リストはこちら

「松永耳庵の茶」展示風景

今後、成果に応じて随時開催したいと思っています。戦後の松永さんの茶事、その道具組を少しでも明らかにしてゆくことで、当館の松永コレクションがかつて演じた舞台の光景がよみがえってきます。その光景は、皆さんの眼にどう映るでしょうか。まさしく「荒ぶる侘び」でしょうか、それとも…?

(主任学芸主事 古美術担当 後藤 恒)

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