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福岡市美術館ブログ

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カテゴリー:コレクション展 近現代美術

コレクション展 近現代美術

貝の絵画

現在開催中の「近代美術と九州」第2期では、1930年代半ばから戦中にかけて活動した福岡ゆかりの画家の作品を展示しています(~10月27日、コレクション展示室 近現代美術室A)。今回はその中でも謎めいた作品のひとつである伊藤研之の作品《音階》を紹介します。

伊藤研之は福岡市に生まれ、当時福岡市に巡回していた二科展に陳列されたドランやマチスの絵画に感化され、画家を志しました。早稲田大学在学中に1930年協会研究所に通い、この作品を発表した1930年代には、ジョルジュ・デ・キリコやマックス・エルンストといったシュルレアリスムの画家に傾倒しながら心象風景を描いていました。

伊藤研之《音階》1939年 油彩、画布

この作品が不思議なのは、《音階》という題名にもかかわらずピアノが弾かれていないことです。画面手前のステージにはグランドピアノが置かれていますが、その横にドレスアップした女性は貝殻に夢中のよう。ピアノから滴る液体は白鍵に垂れ、洗面器に流れ込んで、まるで演奏を拒んでいるようにも見えます。

最も目立っているのは、人体を凌駕する巨大なサイズで描かれた貝殻です。画面のちょうど中央に引かれた地平線を遮るように置かれ、地面に伏せられた姿はドームのようで、その表面の紋様の複雑さに思わず視線が奪われます。

貝殻の根元の蝶番の部分を中心に、同心円状に茶色と白の横縞模様が広がっています。貝殻の表面には、横縞模様と交差するように縦の溝が刻まれているので、模様と溝が互いに干渉して揺らめく波模様を描いています。

見る人を戸惑わせつつ視線を奪う巨大な貝殻の模様は、作者の伊藤にとってどのような意味を持っていたのでしょうか。二つのキーワードで考えてみます。

1.「ここではないどこか」の象徴

伊藤研之の活躍した1930年代、画家たちは貝殻に「ここではないどこか」のイメージを託すようになりました。貝殻は、手に取れば小さく軽く、見つめればその模様や形が様々な出自を想像させ、海の向こうまで見る者の想像力をかきたてます。とりわけ、三岸好太郎は晩年に貝殻にシュルレアリスム絵画の世界観を重ね合わせ、1934年に発表した7つの作品に貝殻を登場させました。現在展示中の《海と射光》はその一つです。

三岸好太郎《海と射光》1934年 油彩、画布

《海と射光》において、強い日差しに照らされた女性の身体と並置されたいくつもの貝殻はジグザグのカーブを描いて地平線の向こうへと続き、見るものを画面の奥へ奥へと誘っています。生きた人間の裸体と並べられた貝殻は、今にも動き出しそうです。     

《音階》の貝殻は圧倒的なスケール感で画面空間を支配しており、ここが現実世界と異なる場所であることを訴えかけます。シュルレアリスム絵画に傾倒していた伊藤は、三岸好太郎の「貝殻づかい」を意識していたのでしょうか。

2.小さな宇宙

一方で、貝殻の描写には仲間の活動からも影響を受けたのではないでしょうか。伊藤は1939年に写真家の吉崎一人、久野久、高橋渡、許斐儀一郎、田中義徳と、工芸家の小池岩太郎の6名でと前衛美術集団ソシエテ・イルフを結成します。ソシエテ・イルフの仲間は、自然の造形の中にある数学的規則に造形としての面白さを見出し、しばしば写真作品の中で切り取っていました。例えば、久野久は貝の拡大写真を撮影し、1938年に高橋渡は女性が大きな貝を見上げる《海の精》を発表しています。1939年10月に発行された写真雑誌『フォト・タイムス』には、吉崎一人が木目を撮った《悠久》が掲載されています。節穴に沿って同心円状に広がりながら、複雑な模様を描く木目を拡大したこの作品に、伊藤は「ふし穴の衛星が描く不規則な無限軌道、遠く迄、遠く迄行って再び帰ってこない無限軌道」という解説文(あるいは詩?)をつけました。写真はお見せできませんが、《音階》の貝殻の模様は、吉崎の作品によく似ています。

《音階》の数学的な規則性を持った貝殻の模様は、音の不思議を暗示しているかのようにですが、自然の中にミクロコスモスを捉える感覚を、伊藤は同世代の写真家と関わる中で磨いたのではないでしょうか。

貝殻の複雑な模様や種類ごとに異なる形は、古くから博物学的な興味をそそり、多くの絵画の中に登場してきました。《ヴィーナスの誕生》に代表されるように女性とセットで描かれ、生命のシンボルとしても知られます。みなさんは、絵の中の貝殻にどんな意味を読み解きますか?ぜひ会場でご覧下さい。

(学芸員 近現代美術担当 忠あゆみ)

コレクション展 近現代美術

梅雨あけの頃

今月24日、ようやく福岡管区気象台が、九州北部の梅雨明けを発表しました。今年は平年に比べて梅雨入りも梅雨明けも遅く、今も梅雨の時期の名残を感じる蒸し暑さです。現代人である私達はクーラーが手放せない生活を送っています。

ところで、都市部では建物やアスファルトに直射日光があたり、うだるような暑さと湿度で不快指数が高くなりがちですが、ひとたび山間部に足を踏み入れてみると、驚くほどひんやりと快適に過ごせる場合があります。

今回ご紹介するのは、ブログのタイトルでもある水上泰生の≪梅雨あけの頃≫です。
中央にバショウ科植物の葉が大胆に広がり、周辺に生えた竹林には南国の鳥であるハッカチョウと雀がとまっています。植物は青々と繁り、鳥はさえずり、生物たちの生命力が満ち溢れた画面となっています。


ハッカチョウは中国南部と東南アジアといった熱帯地方に分布する鳥で、バショウ科の植物も竹も、ある程度湿度が高くないと育ちません。そのため、この風景はそれなりに湿度が高いことが推測されます。それでも、ほどほどに生えた竹林に光が差し込むことで、明るい画面に、どこか涼しげな温度が感じられるようです。この画面の中に飛び込むことが出来れば、クーラーいらずの非常に快適な空気を味わうことが出来る、そんな気がしてなりません。

こちらの作品、近現代展示室Aにて8月25日(日)まで展示してます。

(学芸員 作品保存担当 渡抜由季)

コレクション展 近現代美術

「藤森静雄と『月映』の作家」の楽しみ方

近現代美術係の忠です。2階のコレクション展示室で開催中の、「藤森静雄と『月映』の作家」(2019年5月30日~8月25日、コレクション展示室 近現代美術室B)を担当しています。
藤森静雄(1891-1943)は、久留米出身の版画家です。同郷の画家・青木繁との出会いをきっかけに画家を志し上京し、東京美術学校に入学、学生時代に木版画を作りはじめ、新聞小説の挿絵や童話制作など幅広く活躍しました。
このたびの展示は、そんな藤森が青春時代、田中恭吉、恩地孝四郎という二人の同志とともに作り上げた木版画と詩の同人誌『月映』を中心に作品と資料合わせて66点を紹介しています。
この記事では、展示の楽しみ方を、偏愛を込めて3つご提案したいと思います。

 

1. ほの暗い会場で『月映』のムードにひたる
「藤森静雄と『月映』の作家展」の展示室は、他の展示室に比べて、会場内の照度が低いです。これは、版画の作品が紙を支持体とするため、光や熱による劣化を防ぐための措置です。したがって、もともと意図したものではないのですが、結果としてこの薄暗さは、展覧会のテーマに合っているのではないかと思っています。というのは、『月映』には、その名の通り、月夜のムードが漂っているからです。
第1輯の冒頭に掲載された、田中恭吉による「つくはえ序歌」はこのような内容です。

 

  しづやかに えみうたうもの
  なみだぐみ かきならすもの
  しらがねの つきてるつちに
  しめやかに つどひたるもの

 

月の光の下に集い、木版画や詩を通して、「笑み」「涙」を表現するというコンセプトを3人は共有していました。月や夜のキーワードは作中にも表れ、藤森静雄は天体運動をモチーフにした作品もあります[No. 23《永遠の領》ほか]。彫ったところが光になり、残したところが影になるという版画の特徴も夜の闇と親和性があります。
全体にぼんやりと作品が浮かび上がるように見える照明が、月の下に集まる三人、というイメージと重なって感じられます。

「藤森静雄と『月映』の作家展」 展示風景

2. 資料から若き日の藤森静雄への想像を膨らませる
「藤森静雄の上京」のコーナーでは、ご遺族より寄贈を受けた、青年期の紙資料を展示し、藤森静雄の面影を辿る手がかりとしました。なかでも今回は、「汽笛の響」と「アルバム」に注目します。
「汽笛の響」(1908年)は、藤森の中学時代の日記です。彼は当時「つぼみ」というペンネームを名乗り、学校での出来事や友人たちとの放課後のエピソードをつづっていました。タイトルをつけ、表紙もきちんと作っているのがかわいらしいですが、挿画にも特徴が表れています。学帽を被った青年や、しゃれた着物姿の女学生を軽やかにとらえた絵柄が、ところどころに挟み込まれています。当時の雑誌は文章とイラストレーション(コマ絵)を組み合わせた紙面構成が一般的で、藤森も竹久夢二などが手掛けたコマ絵を見ていたのではないでしょうか。
展示の都合上、見開き2ページしかお見せすることができませんが、他のページにもたくさんのイラストレーションが配されています。藤森は上京後、仲間に「雑誌を作ろう」と持ち掛けますが、日記帳からは、中学時代からすでに創作意欲がみなぎっていたことがわかります。

『汽笛の響』1908年 墨、インク、紙

手作りのアルバムにもご注目ください[No.5 1913年のアルバム]。
アルバムには、上京後の藤森の交友関係がうかがわれる写真が多く貼り込んであります。藤森は1913年当時、美術予備校にほど近い東京の谷中・三崎町に住んでいました。  
「à sansaky」(三崎にて)と書いてあるページには、すぐ近所の下宿に住んでいた田中恭吉や予備校仲間たちが写っており、下宿の庭で家族ぐるみで集まるなどして交友関係を結んでいたことがわかります。(展覧会では、焼き増しされていた写真を展示しています[No.3 写真資料])

アルバムに挟み込まれていた写真。③④が藤森。

藤森のポートレートは、こちらを覗き込むような表情でカメラを見据えており、闘争心あふれる青年時代の藤森の人柄が伝わってきます。
余談ですが、藤森と恩地孝四郎は面影が似ていて、待ちゆく人に「アラ!双子よ、あの二人」と言われたこともあったとか。会場内の集合写真でお確かめください。

 

3. 人体の表現を比較する
『月映』の収録作品には、しばしば肉体が描かれています。
よく知られているように、田中恭吉は当時不治の病とされていた肺結核を患い、療養先の和歌山で、藤森・恩地は手紙でやりとりしながら作品の制作・編集を続けました。1915年10月、23歳の若さで亡くなるまで、三人は共同作業のなかで『月映』を刊行し続け、思うままにならない身体を持つ苦しみと、ときにそれを忘れさせてくれる生の喜びをあらわすため、作品の中に身体を描きこんだのではないでしょうか。
人体をどのようにデフォルメするか、ポーズをとらせるか、その表現は三者三様で、個性の違いを見ることができます。均整の取れた鍛えられた身体ではなく、ねじれた身体、もだえる身体、地面に伏す身体など、その表現にはバリエーションがあります。
全身に緊張をみなぎらせているものもあれば、のびのびと四肢を伸ばしているものもあり、そのポーズは作家自身の内面を語っているようです。

恩地孝四郎《ただよへるもの》(『月映』Ⅲ所収)1914年

1914年の9月から1915年の11月まで、わずか1年余りで終刊した『月映』。
作家ごとの特徴は異なり、その後の展開もそれぞれなのですが、会場にずらりと並んでみると、三人の作品にはどこか共通するトーンを感じ取ることができます。それは、版画という媒体で心の中を表現するという新しい挑戦に取り組む高揚感を共有し、互いに切磋琢磨した証なのではないでしょうか。ぜひ会場で、三人の化学反応をお確かめください!

(学芸員 近現代美術担当 忠あゆみ)

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