2023年4月26日 09:04
どーも。総館長の中山です。
おおむかし、新人学芸員になりたての頃、ひそかに四つの目標を立てたんです。①観覧者10万人以上の展覧会。②専門誌『国華』に論文。③立てても倒れない本を出版。④すごいお宝作品を発見。いやはや、われながらガキでした。しかしラッキーなことに10年もたたないうちに全部叶えられました。当時は、「…ということは、あとは余生だな」などと好き勝手に解釈し、好き勝手なことばかりしていたような気がします。
一番むずかしいと思っていた④の目標を叶えてくれたのが、いま古美術のコレクション展示室で開催中の「全部見せます!岩佐又兵衛《三十六歌仙》」で展示している「三十六歌仙絵(若宮本)」なんです。あれは学芸員になって4年たった1985(昭和60)年の正月のことでした。
「これ、近くの神社が放生会のときに公開した室町時代の歌仙絵らしいですが、どうなんでしょうか」とスナップ写真を見せてくださった宮若市在住の小田さん(当館に作品を寄託されていた)。そんな値打ちがあるのかしらという小田さんのお顔を今でも思い出します。ひと目見て「やばい!これ岩佐又兵衛かも。だったらすごいけど…」と心臓がバクバク。しかしそこはそれ、専門家ヅラして自重し、「そうですねえ。添え状からすると、和歌の筆者は室町時代の公家たちだということですが、絵のほうは画風からして室町時代まで遡らないかもしれません。でも江戸初期くらいはあるかなあ。いい作品だと思います。…あの、これ、その…実物を見られますかね」
調査が実現したのは5月15日。当時の若宮町役場の会議室。いろいろ事情があって、歌仙絵は神社ではなく町役場の収入役の金庫にながーいあいだ、しまわれていたんです。収入役や若宮神社の宮司斎藤さん、神社の奉賛会の会長だった有本さん、小田さんなどが見守るなか、わたしに同行してくれた先輩学芸員の田鍋さんとともに、けっこう古びて傷んでいる折本装の最初の表紙をおそるおそるめくりました。現れたのは御簾越しに描かれた後鳥羽院。
ああやっぱり、これ又兵衛だと、また心臓がバクバク。36枚すべてを写真撮影したり採寸したりしたあと、「あのこれ、岩佐又兵衛の真作だと思います。又兵衛は江戸初期に活躍した有名な絵師で…」と黙って見守っていたみなさんに説明しました。みなさんキョトンとされてたなあ。
「いわさまたべえ? 誰ですな? …後藤又兵衛の親戚ですかいな?」
「アハハ。違います。織田信長に謀反した荒木村重の息子です」
それからめまぐるしく色んなことがありました。学会での発表。新聞の一面報道。NHKの番組制作。当館への寄託。一冊五万円の復刻版制作(千部完売)。全面的な修復。福岡県警のパトカーが先導してくれた里帰り展示。地元の温泉旅館に「三十六歌仙の湯」もできたりして…。
岩佐又兵衛の歌仙絵で36枚すべてがそろった二組目(一組目は埼玉県川越市の仙波東照宮にある重要文化財の扁額作品)として美術史界では全国的に有名になった若宮本が呼び水となり、永らく所在不明だった「三十六歌仙絵(旧上野家本)」が出現して首尾よく当館が購入したことは、なかでも大きなトピックだったと思います。これで全揃い三組中二組が福岡市美術館に収蔵されたわけですから。
ということで現在開催中の「全部見せます!岩佐又兵衛《三十六歌仙》」には、裏話がてんこ盛りです。若き日の傑作である旧上野家本と、名を成した晩年の若宮本が全部そろって展示されているのですから、見比べてみる絶好の機会です。描かれている歌仙の顔ぶれも表現も、全然違いますよ。それに、両方ともなかなか解けない謎もあります。
さて、摂津有岡城で城主荒木村重の落胤として生まれ、まだ二歳だったときに父村重が信長に反旗を翻し、乳母に背負われて攻め落とされる城から命からがら脱出した又兵衛は、信長と敵対していた石山本願寺に匿われて京都で育ちます。成長した彼は武門の再興をあきらめて絵師として生きることを選び、京都、福井、江戸へと活躍の場を移しながら、晩年は絵師としての名声を得ていくのです。
数奇な運命に翻弄された人生を送った又兵衛ですが、まさか縁もゆかりもない福岡(じつは結構あるのですが)で歌仙絵の両極ともいうべき自作がずらりとならべられているなんて、絶対にびっくりしてると思います。
(総館長 中山喜一朗)