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コレクション展 古美術

「買い物あるある」を「美術鑑賞あるある」に

スーパーで買い物をすると、つい要らないものまで買ってしまいますよね。
仕事帰りでお腹が空いている時は、なおさらです。牛乳と納豆を買えば済むものを、鮮魚コーナーの高彩度LEDに照らされた刺盛に手が吸い寄せられます。割引シールが貼られていようものなら抗うことは困難に。スナック菓子にアイスキャンデーも詰め込んだ買い物袋を携えて帰宅し、腹をすかせた息子たちの歓喜に迎えられて複雑な心持ちを噛みしめるのです。
スーパーの商品陳列の配置には、来店客の利用のしやすさだけでなく、購買意欲を刺激するために考えぬかれた様々な工夫、イジワルな言い方をすれば「仕掛け」がちりばめられていることはよく知られています。わかっちゃいるけど買わされてしまう、それだけ巧妙に考えられているようです。
そして不思議なことには、まんまと買わされた!と後悔しても、次の日には、切らしていた卵とバナナを買うために入店し、さんざん息子たちにバカにされた屈辱を忘れてプロ野球チップスを自分の分までカゴに入れようとするのです。そう、反省も、後悔も、不満も、清々しいほどに消え失せてしまうのです。どうしてなのでしょうか?
その理由はおそらく単純なことで、深層欲求が表面欲求に勝るからに他なりません。要らないと思っているものにも、本当に心から不要と思っているものと、本当は欲しいのだけど不要であるべきだと思っているものがあります。スーパーで買わされる物は、もれなく後者に該当するはずです。だから、「買わされた」という使役受身形の行為におのずと積極性を自覚して安心するのであり、さらにいえば、スーパーの策略にしてやられたというフリをして、実は満足すらしているかもしれないのです。いかがでしょうか。

前置きが長くなりましたが、お客さんがこうして「買わされる」仕掛けを、「見せられる」という形で展覧会作りにも応用できたら、すごいことになるんじゃないかなぁと思っています。うまくいけば、まさにワークライフバランスのお手本になるでしょう(違うか)。
一つの展覧会、特に来場者の少ないコレクション展示に陳列する作品群の、一つでも多くを心に留めて帰っていただくために、見たくもないものに注目せざるをえないように仕向けること。「お客さんをたぶらかすつもりか!?」と言われれば、まあその通りなのですが、ご安心を。スーパーと違って、見るつもりのなかったものをどれだけたくさん見せられたところで、追加出費は発生しませんし、食べすぎの心配をする必要もありません。
もとより当館のコレクション展示は一般200円という、内容の充実ぶりからすれば破格の観覧料だと思います。それが破格であることを実感していただくためにも、魅力的な企画内容をはじめ、解説、照明による演出など工夫すべき点は多々あるのですが、スーパーの配置構成を見習うことによって、お客さんにとっての美術体験は良くも悪くも一層に充実したものになるのではないか。

でもよく考えたら、当館では、はからずも既にいくつかの仕掛けはあります。古美術展示室に初めて足を踏み入れる方は、入り口の自動扉をくぐったとたん、右側に、まさに仁王立ちする巨大な阿・吽の仁王像に眼がいくでしょう。阿形像と吽形像の間に立つと、眼は仏堂内の雰囲気ただよう奥の室に誘導されるでしょう。そこには薬師如来の周囲に多くの仏像がたたずんでいます。黒壁を背景にした御像が、3500ケルビンのLED照明にドラマチックに照らし出され、厳粛な空気に満たされています。そうした空間に生理的な嫌悪感や忌避感を覚える人でなければ、自然と足を踏み入れたくなるような、そんな空間です。
いっぽう、リピーターの方は、例えば松永記念館室に常陳されている重要文化財《色絵吉野山茶壺》を見るために入室すると、正面の古美術企画展示室のウォールケースあるいはその手前の行灯形展示ケースに陳列される作品の存在感を無視することはできないはずです。自動扉を入ったときの視界をいかに新鮮にかつドラマチックに演出するかということは、学芸員が展示替えのたびに熟慮していることなのです。
私は、こうした工夫を隅々にまで周到に散りばめて、お客さんをたぶらかしまくりたいのです。以前私がこのブログで書いた「名品展をつくる難しさ」という記事の内容は、そのささやかなる試みの一例です。展示台に置くだけで見る人を魅了できる「名品」を集めた展示は、企画もなにも、置くだけでいいのだから作るのは簡単と思われがちですが、それじゃあ勿体ない、集った名品が全て耀くためには、配置の仕方に相当の苦労を要するのだ、ということを説きました。逆にこのこと以外、とりたてて実践できたわけではなく、口先ばかりでお恥ずかしいばかり。

ともあれ、美術館学芸員として、大小様々な展示を企画してきましたが、それぞれの展示で「見せたいもの(こと)」に対する考え方も、年を重ねるごとに少しずつ変わってきています。ブログで何を書こうかとネタに困った挙句、指の動くままにこのようなことを書いているのも、見たかったものと出会うことと同じくらいに、見るつもりのなかった、さらには見たくもなかったものに出会い、向き合うことは大切だ、否むしろ余程大切なんじゃないかと強く思うようになっているからです。それは、多様性を受け入れる、という当たり前のこと(として誰もが簡単に口にしながら、実践することが非常に難しいこと)の実践にそのまま結びつくように思っているから、でもあります。そして美術館・博物館のものいわぬ展示物を見る行為は、作品鑑賞という楽しみと同時に、多様性を受け入れるための訓練を、誰とも争わず、誰をも傷つけず、誰にも邪魔されずに出来るチャンスなのではないか、と本気で考えるようになりました。
この仕事をするまでは、古美術の中でも研究している分野の作品以外は殆ど見向きもしなかった私ですが、今はどんなテーマの展覧会にも期待をもって足を運び、作品たちに向き合い、良くも悪くも色んな感情が沸いてくるようになりました。見るも華やいだ美しい絵画に見惚れているうちに、これ見よがしの見栄えがだんだん鼻についてきて、不愉快にすらなってくることがあります。いっぽうで、ただ醜くて意味不明とした思えないオブジェを漫然と見ていると、いつぞやの辛かった時の記憶が蘇り、否応なしにそれを反芻しているうちに、それまで自覚していなかった自分の欠点を見つけられたような気がして、えもいわれぬ充実感に満たされたこともあります。どちらの反応も、きっと作家が鑑賞者に対して意図したり、期待したりしたことではないはずです。美術品が備える「美」の正体は、無限に姿を変えて、見る人の見方や接し方によって、自他、彼我、周囲のあらゆるところに潜んでいるようです。
古美術から近現代美術まで広く集める福岡市美術館の展示内容は、実に多種多彩です。出会ってみなければ、向き合ってみなければわからない何らの気づきの機会が、そこかしこに隠れています。どのような目的であっても、展示室に入ったら、出会って都合の良い作品にも、悪い作品にも、どちらでもない作品にも出会うことになります。その何れに対しても自然に向き合い、様々な感情を掻き立てていただける仕掛けを、私はスーパーで日々ついつい「買わされ」ながら模索しています。
ちなみに今日は私、スーパーに立ち寄る予定は、ありません。でも、「なんか買わないかんものはなかろうか」と、買う物を頭の中で探しています。自分が仕掛けた展覧会を見たお客さんが、その後「なんか見ないかんものはなかろうか」と何度も当館に足を運んでは色んなものを見せられて、疲れて、懲りてもまた来てしまう、ということになったらなんと素敵なことか、と思います。頑張ります。

(主任学芸主事 古美術担当 後藤 恒) 

 

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