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福岡市美術館ブログ

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秋の大名品を秋の名品展に出さなかったワケ

福岡市美術館所蔵の古美術作品およそ4,500件から代表を一つ選べと言われても私には無理です。三つと言われてもムツカシイです。では五つなら?やっぱり選びきれないです。じゃあベストテンなら?それならまぁ、はい、いや、やっぱ無理です。

でも、当館松永記念館室で春・秋にそれぞれ開催する名品展の主役を担う作品すなわち春の野々村仁清《色絵吉野山図茶壺》(写真左)、秋の尾形乾山《花籠図》(右)という二点の重要文化財は、間違いなく五指に入ります。

<左>春の名品 <右>秋の名品

前者は光の影響の少ない焼物ということもあって、三次元免振装置付の展示ケースに常陳していますが、後者は特に光の影響で劣化を招きやすい着色画であるため、保存管理上の観点から年に一度、一つの展示に出陳するのが精いっぱい。それで「秋の名品展」の目玉作品として公開するのを通例としてきました(同室内にある茶室展示ケース「春草廬」では本作のレプリカを常陳しています)。

でも今年度に開催した「秋の名品展」(会期2023/8/22~10/29)に、本作は出品しませんでした(本作を楽しみにして来場された方にはこの場を借りてお詫びいたします)。それには深~い理由があるのです。昨日(1/16)より開催した「シリーズ茶の湯交遊録Ⅲ 原三溪と松永耳庵」展に出品するためです。《花籠図》は本展の企画テーマを象徴するような作品なのです。

<左>原三溪(1868~1939) <右>松永耳庵(1875~1971) ※画像は国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)より

原三溪は横浜の実業家で、自ら書画をよくし、茶人、美術品蒐集家、そして同時代の画家を支援したパトロンとしても知られます。松永耳庵にとっては茶の湯を始めた頃から、三溪が没するまでの約4年間の短い交流ながら、茶を通じて師のような存在として敬慕し、「三溪先生」と敬称して自著に少なからずの記述を残しています。

福岡市美術館の松永コレクションには原三溪旧蔵品が十数点含まれています。三溪翁の生前に譲り受けたもの、没後に原家に懇願して入手したもの等、集めるとそれだけで松永コレクション名品展となるような重要な作品ばかりです。本展はそれらに焦点をあて、松永耳庵の自他の著述や記録に残るエピソードとともに紹介し、両者の交流を垣間見ようというものです。

解説リーフレット・作品解説は下記の通り。
「シリーズ 茶の湯交遊録Ⅲ 原三溪と松永耳庵」解説リーフレット・作品解説

出品17件のうち5件が重要文化財・重要美術品という充実ぶり。
展示風景と、ついでに展示図面もお見せしちゃいましょう!

※前期展示は2/12(月・振)まで。後期展示は2/14(火)~3/17(日)

展示構成は、基本的にはエピソードを伴う作品を、時系列で並べました。するとたまたま《花籠図》が中央の位置にきました。これは天国の両翁からのメッセージだと信じることにしました。

耳庵翁は、三溪翁に招かれた茶事で初めて本作を目にした時の感動を「一切の他を圧して独り主翁と肱を把って一座に臨むの慨がある。」と亭主三溪の存在に照らして表現しています(『茶道春秋』下14頁)。そして三溪没後18年を経て入手し、秋の茶事の定番として愛蔵したのでした。このように、生前の三溪翁から見せられて、没後長い年月を経て入手したものも少なからず含まれています。

《花籠図》の魅力は、展示室で実物を見て感じていただきたいのでここで多くは語りませんが、私の個人的な感想として一言でいうと、絵と書のハーモニーの妙です。一見するに、ああキレイだな、なんかオシャレだなと思って近づいてみる。すると色んな美しさが目に飛び込んできます。構図、絵と書の筆使い、配色、それぞれが見どころです。

書は、私には上手いのか下手なのかわからないのですが、どこか繊細で、たくさん書かれているのに絵を邪魔していないどころか、美しく調和しています。和歌の内容を知ると、さらに色んな解釈ができて想像が膨らみますが、そういう知識を必要とせずに強く眼を引き付けてくれる、オーラに満ち溢れた作品なのです。あれれ…思わず語り過ぎてしまいました。

本展は3月17日(日)まで。ご来場お待ちしております。

(学芸課長 後藤 恒)

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(古美術一筋20年の)わたくし的、“現代アート”の楽しみ方

私は大の日本プロ野球(NPB)ファンなのですが、ひいきにしている球団がここ数年低迷を続けているため、「まだ応援してるの?」と聞かれることが多くなりました。
そのたびにこう答えます。

「弱いからこそ、なおさら応援するんスよ」

愛着がある球団が弱いから、強くなってくれるよう応援する、ただそれだけなのですが、そりゃあ、みっともない負け方をされると(応援に注いだ熱量の分だけ)癪にさわります。プロがあんなプレーしちゃダメやんか~!とイライラして眠れなくなる夜だってあります。
でも、どんなヒドイ負け試合にも、真剣勝負には輝いた選手、素晴らしいプレーが必ずあるもの。それらに着眼して試合を振り返り、相手球団にまで視野を広げて選手たちのプレーをプレイバックしてみると、どうでしょう。「やっぱプロって凄いよな、うん」とうなずき、ひいきの選手に「次は頑張ってヨ!」とエールを送り、相手選手に「敵ながらアッパレ!でも次は覚悟しとけ」と讃辞と捨て台詞のひとつでも吐けば、心地よく眠りにつけるのです。つまり分母を大きくすれば、細かい部分が見えてきて、見どころは無数に増えるのです。
このように、いつからか私は、勝敗による一喜一憂を超えて、選手たちの一挙手一投足を純粋に楽しむことができるようになったのですが、どうもそれは、古美術一筋で仕事をしてきた自分が、当初から苦手に感じていた“現代アート”をいつしか純粋に楽しめるようになったプロセスと軌を一にしているように思えてなりません。そんな、どう考えたってどうでもよい相関が、わが事ゆえにふと妙に気になってムズムズしていたところにブログの順番がまわってきたので、これを機に、恥をしのんでわたくし的現代アートの楽しみ方を書きなぐってみることにします。現代アートというものが気になるけど、とっつき方がどうしてもわからないという方へのひとつの参考にでもなればと思ってのことですが、高尚な助言は皆無です。期待せずにお付き合いください。

当館の学芸課・古美術係に奉職して丸20年、それこそ当初よりしばらくは現代アートに興味・関心を持つことができませんでした。職業柄それではいけないと思い、努めて現代アート展やギャラリーに足を運ぶも、あえなく弾き返されていました。
途方もない労力と手間をかけて作っているけど「だからなに?」としか思えない物体に首をかしげ、風景か静物か人物かもわからないモチーフが描かれたキャンバスを横目に、ホームセンターで数千円も出せば買えそうな材料で作られた置物をあやうく蹴とばしそうになり、しかもその作家の作品が美術市場で信じられないような高額で取引されるなどと知るや、ますます戸惑い、途方にくれていました。現前する作品の価値と意味を理解するための知識と経験が絶望的に欠如している自分を認め、自ずと敬遠してしまっていました。
そんなコンプレックスを克服できたのは何故か。特に努めて知識を得ようとしたとか、とりたてて大きな鑑賞体験を思い出すわけでもないのですが、ひとつ確かなのは、「わかるか、わからないか」で評価することをキッパリとやめたことです。自分が認識する「美術」の分母を極力大きくした上で、何らかのおどろきを感じさせるモノをしっかり見る。見えてくるものに対してわき起こる感情に素直に丁寧に向き合う。そう開き直っただけで感度が飛躍的にアップし、次第に楽しくなってきたのです。
スポーツの「勝ち・負け」を、美術鑑賞を通じた「わかる・わからない」に置き換えてみるとよいでしょう。どんな「わからない」作品に対面しても、

「わからないからこそ、なおさら面白いんスよ」

と多少なりとも思えるようになれば、「わからない」という理由だけで作品を拒絶することはなくなります。このセリフは今の私がかつての自分に伝えたいことなのですが、続けてこうも付け加えたい。「どうしてもわからないんだけど、どうしてもわかりたくさせる作品ってのがたま~にあって、それってきっと、すごい作品なんスよ」と。
そも世の中、わかることより、わからないことの方が圧倒的に多いことは自明なのですから、価値観の転換や想像を超えようと追究するような創造物を理解することは簡単ではないはずです。「想像できないものは、創造できない」という名言がありますが、まさにその創造に真向から挑んだ(ように見える)作品に出合ったら、わかろうとするのではなく、わからないことを支えている驚きや戸惑いに、まずは素直に向き合うことが大切だと思います。
「いや待ってよ。美術そのものに興味がない人には、そもそも無理でしょ?」と思われるかもしれません。でも、美術(アート)という概念は、あまりに広いのです。自分が美しいと思った造形物は、すべて美術とみなしても誰も文句はいいません。本当に好きな美術品や作家がひとつ・一人としていない、という人は、いったいどれだけいるでしょうか。どのようなモノでもいい。何か一つ好きな美術の分野があれば、もう入口に立っているはずなのです。

さて、ほとんどの展覧会にはそれ自体に何らかのテーマが設定され、いくつかの章に分けて構成されています。それはレストランのフルコース料理の構成にも似ています。ある食材が、決められたコースの中で、どう調味され、どの順番で、どんなお皿に盛って出されるかによって味わいは様々に変わるように、ひとつの展示作品は、展覧会のテーマに基づく企画構成の中で、どう意味づけ、価値づけられ、どの順番で、どんな展示台の上に、どんな照明を当てるか等によって、いかようにも見え方を変えるのです。それが展覧会の醍醐味であることは確かなのですが、だからといって展覧会って展示された順番に作品を見て行かなければ損をするのかといえば、決してそんなことはありません。作品鑑賞それ自体を目的とすれば、テーマを無視して個々の作品に向き合っても全く構いません。そこがコース料理とは異なるところで、どの作品を、どの順番で見ようが勝手です。とにかく自由なのです。
「そうは言っても、自由だからこそ、なおさらどう見たらいいのか、わからなくなっちゃう」と不安になるかもしれません。そんな時は、予備知識も予習もな~んにも必要としない、私も実践する次のような鑑賞法を一度試してみませんか?
↓↓↓
展覧会場の入口。
主催者あいさつ文を熟読したら、心の中でこうつぶやきます。

「わかった。じゃあ、この私をおどろかせてみなさい」

そして胸を張って奥へと進み、会場内を一通り練り歩きます。
そう、この清々しいほどの上から目線、ふてぶてしいほどの受け身の態度で臨むことが肝要です。すると、わからないことへの不安や恐れ、知らないと楽しめないという思い込みが面白いように消えてゆきます。消えてゆくにしたがって、心の感度は確実にアップします。
章構成を確認しながら学芸員が考えた見せ方の工夫に思いをめぐらせたり、照明や演示具の完成度が気になったりしがちですが、そんな雑念はひとまず振り払って、作品たちを眺め歩きます。この時は個々のキャプションと作品解説には目もくれません。
「ん、なんだ、これは?」と目を引く作品があれば「おぬし、できるな。あとでまた会おう」と言って先へと進みます。
「うおお、なんじゃあ、こりゃあ…!」と否応なく足を止める作品が立ちはだかったら、しめたもの。さっき目をつけた作品との再会の約束は一旦忘れます。「きさま、なにやつ!?」とキャプションと作品・作家解説を一言一句もらさず精読します。わきおこる様々な感情、連想される色々な事柄やイメージを心の中でひとつひとつ確かめながら、作品に近づいたり遠ざかったりして、構造、素材、形、色、技法など細部を観察してみたり、そもそもこれは何なのか、ナゼ自分がおどろいたのか、あることないことアレコレ考えてみたりします。そうこうするうちに作品鑑賞という行為が「自分」との対話へと変化しますが、それもまたよし(否、なおよし)。多少なりとも納得できたような気になった頃には、かなりの時間が経っているでしょう。
結局正体などわからなくてモヤモヤが残るかもしれませんが、まずはおどろかせてくれた作品と作家に感謝です。また結局それが自分にとって好きか、嫌いか、どちらでもないのかもよくわからないことだってありますが、いずれにしても興味さえもってしまえば、自分が本当に欲する知識や情報は、自分の気の向くままに自ずと後から入ってくるのです。いっぽう、会場のどこを探しても何一つ気になる作品がないこともあります。それは縁がなかったと割り切って、次こそはと自分をおどろかせるツワモノとの対面を期して、再び上から目線で突入します。遅かれ早かれ、気になる作品には必ず出合えるはずです。いかがでしょうか。

こうした態度が、難解といわれる現代アートへの理解に必要と言うつもりなど、さらさらありません。企画した学芸員にとっては不本意かもしれません。でも現代アートの宇宙は、そんな自由気ままな鑑賞態度なんぞ一瞬で吸い込んでくれることは確かです。
美術館の「び」は、びっくりの「び」とは、よく言ったもの。私もつくづくその通りだと思います。それは単に視覚的に華美であるとか造形的にインパクトのあるものではありません。逆に、あまりにもシンプルな外見で「いやいや、うそやろ、なんでこれが作品?」というおどろきもあります(ウォーホルの作品などはその好例といえます)。それが展示室に作品として飾られていること自体が、すでに大切なおどろきのタネなのです。「なんで?」という疑問の繰り返しに任せてタネを育てていくと、自分なりの面白い発見につながるかもしれないのです。

(学芸課長 後藤 恒)
 

まずは当館2階のコレクション展示室から、試してみませんか?

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はじめまして

はじめまして、福岡市美術館へようこそ!

撮影:(株)エスエス上田新一郎

2階入り口に向かう広場「エスプラナード」。写っているのは、草間彌生《南瓜》。屋外作品としては、直島の《南瓜》と双子です。

4月、新しいスーツもだんだん板についてくる、今日この頃。この春から福岡で新生活を始められる皆さま、はじめまして。ようこそ、福岡市へ。福岡市美術館・館長の岩永悦子と申します。わたしも、30ウン年前に福岡に越してきました。福岡の明るく開放的なお土地柄にすっかり魅了されて、福岡愛を語る典型的福岡人になりました。

福岡は街の住みやすさ、食の楽しみで語られることが多いのですが、「アートの街」でもあります。だって、福岡市が運営しているミュージアムが3つもあるんですから(福岡アジア美術館、福岡市博物館)。さらに、県立美術館も含めれば、美術を楽しむのには事欠かない街といえます。

福岡市美術館は、大濠公園という、街の中心地にほど近い公園の中にあります。地下鉄やバスで来られるのも便利です。タクシーでいらっしゃるときは「大濠公園の美術館」と運転手さんにお伝えくださいね。(別の美術館や博物館に行っちゃう可能性がありますので。)

福岡市美術館は、市立の3つの美術館のなかでもっとも歴史がふるく、開館してから40年以上たちました。開館準備期間を含めると、約50年の間に、1万6000点の作品を収集しています。いろいろありますけども、最初にご紹介した草間彌生をはじめ、ダリ、ミロ、シャガール、ウォーホルの大作を、コレクション展示室で常時見ていただけます。

サルバドール・ダリ《ポルト・リガトの聖母》。ダリの代表作。海外貸出しNo.1。

 

写真左側がジョアン・ミロ《ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子》。開館前年に購入。購入費用が新聞に出て、話題沸騰。

 

写真中央はアンディ・ウォーホル《エルヴィス》。購入の交渉中にウォーホルが逝去。それでも、無事に福岡に。

大濠公園を歩いて、コレクション展示室を楽しんで、のどが乾いたら、ホテル・ニューオータニ直営のカフェで公園の湖面をみながらゆっくり。心身ともにリフレッシュできる空間が、ここにはあります。これからも、福岡市美術館の魅力をお伝えしていきたいと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

(館長 岩永悦子)

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