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福岡市美術館ブログ

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カテゴリー:総館長ブログ

総館長ブログ

辰は美術と仲がよい

あけましておめでとうございます。総館長の中山です。本年も福岡市美術館をよろしくお願い申しあげます。
今年は辰年ですね。辰、つまり龍は、十二支のなかで唯一実在しない(多分)動物。少なくとも動物園にいないのは確実です。動物の専門家集団がいらっしゃる大牟田市動物園さんも、「今年は辰年! なので動物園で竜と仲良くなるイベントを開催!」とか無理みたいで、当館にライブ配信のコラボのお誘いがきました。
どういうことかというと、「1/14 ライブ配信!教えて!美術館の人! -辰って一体どんな動物?- – 大牟田市動物園 -Omuta city zoo- 」というもの。教育普及担当の﨑田学芸員と一緒に、わたしもゲスト出演することになりました。60分から90分くらいでしょうか。どなたでも聴講できますのでもしよかったら覗いてみてください。
さてさて、では龍っていったいどんな動物なのか、ここで教えろって? いや、見たことないし…。知らんし…。専門家でもないし…。なんて逃げていてはライブ配信もできません。とりあえず辰、竜、龍、ドラゴンなどというキーワードで、当館の所蔵品データベースを検索してみました。ということで今回はほんの少しだけ、ライブ配信の予告編、みたいなやつです。
近現代美術と古美術、両方の所蔵品データベースを検索した結果は、人名や地名に文字として引っかかっただけのヒット(実はアウト)もけっこうありましたが、特に古美術作品には、龍を描いていたり、かたどったりしているきちんとしたヒット作品が50点近くありました。だったら同じ十二支のネズミは? ウシは? …やってみたけど少ない。ウマとかイヌなんかは少しはある。それでも竜に比べると少ないのです。二番目に多いのはなんだかわかりますか。動物園以外ではめったに見られない、獰猛なやつです。去年38年ぶりに日本一になった阪神…。そうなんです。龍とペアで描かれたりすることも多い。襖絵なんかで竹林からヌッと姿を現わしたりしているのが、現在「狩野派絵画の名品展」で展示中です。わたしの相当ふざけた解説文もあります。
龍にまつわる作品の点数を稼いだのは陶磁器や漆器(螺鈿とか)などの工芸品。中国で作られたものや、日本製でもちょっと中国っぽいデザインだとけっこう龍がいるんです。これは多分、当館だけの話ではないはず。全国的に見ても、世界的に見ても、龍やドラゴンは美術と仲が良いと思うのです。ゲームとも仲がよいけど。いやいや馬も多いはず? 馬の博物館というのもあるし? 確かに。馬に乗っている人物も数えれば多いかもしれませんが、馬自体がテーマの中心になっている美術作品はそう多くはありません。これがネズミやイノシシやニワトリとなると、十二支の動物として描かれる以外では、なかなか目にすることはないのです。まあ、江戸時代の伊藤若冲みたいにニワトリの絵をたくさん描いた人もいましたけど。

重要文化財「十二神将立像 波夷羅大将・辰神」頭部(左・平安時代、右・南北朝時代。東光院仏教美術資料)

そのものズバリの「辰」でヒットしたのは重要文化財の「十二神将立像 波夷羅大将・辰神」二躯でした。にく? 美術館や博物館で仏像を数えるときは、尊と体とかではなく躯(く)という単位なんですよ。日本語ってむずかしいですね。当館所蔵の十二神将は平安時代の作と南北朝時代の作の二組あり、それぞれ十二躯、つまり十二支が全部揃ってます。そうなんです。十二神将は十二支でひと揃い。写真でわかるように、両方の「波夷羅(はいら)大将」の頭には、龍の頭部がちょこんと乗っています。ネズミやイノシシやニワトリだって頭にちょこんと乗っています。十二支それぞれの神将がいるのは、みんなで十二年ひとまわり、だからではありません。十二支は、年ではなく月や時刻や方角をそれぞれがガードするためなんです。受けもつ時間や方角が決まっているガードマン。それが十二神将。なにをガードしているのかって? 

東光院仏教美術室の展示風景(現在の展示ではありません)

中央の薬師如来をぐるりと囲んでお守りしているだけの単純な話ではありません。薬師如来を信仰する人々、薬師如来に関する代表的な経典である『薬師瑠璃光如来本願功徳経』の教えも守護しているのです。では龍を頭に乗せた「波夷羅大将」が受け持っている時間は何時? 方角はどっち? それはライブ配信でお話ししましょう。まあ、ググったらすぐ出てきますけどね。
結論としては、龍は美術と仲がよかったってこと。なぜだと思われますか。多分ですけど、実在していない、空想の生き物だからかもしれないなと。空想の羽を広げられるでしょ。身近な動物じゃないので神聖な存在にもなれるし、恐ろしい存在にもなれる。かるがると人知を超えられるわけです。そういうところで絵心をくすぐられるのかもしれません。姿としてかっこいいしね。よーし一発最高の龍を描いてやるぞってね。
本番の配信では、龍の動物的特徴や王様専用の竜の話、ドラゴンボール、西洋のドラゴンには羽があるけど東洋の竜には羽がない話などなど、辰年の年頭にぴったりな話題でもりあがりたいと思います。ではでは。

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偏愛のすすめ

どーも。総館長の中山です。
11月23日に、美術史家で明治学院大学教授の山下裕二さんとプレゼンバトルをしました。当館の古美術作品から「超絶技巧」「ユーモア」「威風堂々」「カワイイ」「これ欲しい!」という五つのお題をもとに互いに自分が好きな作品を選び、赤コーナーと青コーナーに分かれて五ラウンド。本物のゴングも鳴らされながら、おのれの偏愛度を披露しあう、語り合うというトークイベントでした。大勢の方にご来場いただき、和気あいあいにバトルすることができて楽しかったです。

「プレゼンバトル 古美術編!」会場の様子

ということで今回は「偏愛」をおすすめしようと。だいたいが、キリストやブッダじゃあるまいし、「かたよらない愛」などということ自体が大変むずかしい。凡人の愛は大抵、かたよります。でも不平等になってはいけない場合も多い。三人子どもがいるけど、ひとりだけを可愛がるとか。先生がえこひいきするとか。

いまは偏愛ではなく「推し」という便利な言葉がありますね。山下さんの推しメンは、超絶技巧は「病草紙 肥満の女」と「尹大納言絵詞」、ユーモアは「宮本武蔵 布袋見闘鶏図」と「伝・梁楷 鶏骨図」、威風堂々は「壺形土器」、カワイイは「仙厓 犬図」と「弥勒菩薩半跏像」、これ欲しい!は「長次郎黒楽茶碗 銘次郎坊」などでした。いやあ仙厓以外は松永コレクションで、さすが名品ばかりです。

対してわたしは、超絶技巧は「金銀鍍透彫華籠」と「蟹自在」、ユーモアは「岩佐又兵衛 三十六歌仙」と「仙厓 牛図」、威風堂々は「薬師如来立像」と「古林清茂墨蹟」、カワイイは「コブウシ土偶」と「女性土偶」、これ欲しい!は「青磁迦陵頻伽形水注」と「牡丹唐草文螺鈿小刀」でした。

こうして並べてみるとわたしの推しメンは、なんかメチャクチャ? そうなんです。国は日本、中国、タイ、パキスタン、時代は紀元前3000年から19世紀まであって、ジャンルもバラバラです。まあ、当館の約4500点ある古美術作品は地域も時代もジャンルも幅広く、しかも名品もたくさんあるのが特色ですから、なるべくかたよらないで選んで、そしてかたよった愛を語ろうと…。
プレゼンバトルではありましたが、勝った負けたはなし。来場の皆さんもアカデミックじゃない話も含めて楽しんでいただけたと思います。
そうなんです。アカデミックじゃなくていいんです。美術鑑賞は。むしろ、好き嫌いをはっきりさせて、好きなものに関しては「推し」をもっと推し進めて、「偏愛」しまくりましょう。美術館ではえこひいき大歓迎なんです。美術を楽しむ秘訣。それは知識ではなく、愛なのです。というか、好きだったらもっと知りたくなる。で、作品にまつわるいろんなことを調べてみる。さらに「偏愛」が深まる。こうなるともう立派な美術マニアの誕生です。当館のコレクション展示室は年に何回も展示替えをしていますから、来るたびになにかしら新しい作品と出会うことができます。自分勝手にお題を決めて、推しメンをさがす、というのもアリではないでしょうか。

(総館長 中山喜一朗)

 

 

 

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自分史的巨大ロボット考

どーも。総館長の中山です。
ちょっと変かもしれませんが、いや、歳をとっただけかもしれませんが、わたしは「ロボット」という言葉の響きに郷愁を感じてしまいます。まだ字もろくに読めない頃の、遠くておぼろげな記憶の霧の中に立っているロボットは、アトムではなく鉄人なんです。1950年代の後半、四歳か五歳の頃に月刊誌『少年』で出会った鉄人28号は、月刊誌だけでなく、親にねだって買ってもらった単行本(吹き出しのセリフの一部までおぼえている。アトムの単行本は持っていなかった)や、子供心にも「これ、チャッチイ(幼稚、子供だまし)」と感じてしまった実写のテレビドラマ、テレビまんがとその勇ましい主題歌、グリコのオマケなどとともに、ながいあいだわたしの身近にいたロボットでした。

「日本の巨大ロボット群像」会場より

でも、鉄人の最初の最初は巨大じゃなかった記憶があります。原作者の横山光輝さんは「アトムを意識して鉄人を大きくした」みたいなことをおっしゃったとウェブの記事にはありましたが、この差は、つまり鉄人が初期の頃に巨大になったのは、けっこう重要だったと思うんです。
アトムも好きでしたが、アトムをロボットだと意識してまんがを読んでいた記憶はないんです。アトムはアトムでした。つまりなんというかキャラ。ほぼ人間なんです。人間サイズだし普通にしゃべるし、学校に通っているし、家族もいるし。しかし鉄人は、ガオーとしか言わないし、無表情だし、なにしろロボット。
たぶん人間に「なりたいロボット」と、そんなこと考えもしない「あくまでロボット」の二種類がいるのかもしれません。鉄人を巨大にしたのは、非人間化だったのでしょうか。非人間だからリモコンが悪者の手に渡ると鉄人も平気で悪者になるし、鉄人に善悪は関係ないのです。人間じゃないので、機械なので全然いいわけです。すっきりしている。わたしはすっきりしているのが好きだったのでしょう。お話のなかでいろんなことを考えさせられるのが苦手だったともいえます。
そういう鉄人が好きだったから、当然『マジンガーZ』も『ゲッターロボ』も好きだったわけで、子供とはいえない年齢になってからも「あくまでロボット」アニメをよろこんで見ていました。外からのリモコン操縦ではなくて中に乗り込んで操縦してもマジンガーが人間になるわけではないので「あくまでロボット」のままです。

「日本の巨大ロボット群像」会場より

デザインは凝りに凝るし、変形や合体があたりまえになるし、設定もどんどんリアルになるし(リアルになると機械であることが強調される)、当然のように単なる巨大ロボットのバトルものではない奥行のある作品も登場して、ついには原寸大のリアルな巨大ロボットがあちこちの町に屹立する現代に至り、「日本の巨大ロボット群像」という特別展が美術館学芸員(当館の山口洋三学芸員・現在は福岡アジア美術館学芸課長が監修)によって企画されても全然おかしくない地点にまで、彼らは成熟してきたわけです。わたし自身は、「あくまでロボット」が「モビルスーツ」と呼ばれる頃にはもうオジサンになってしまっていて、プラモデルも作らなくなってしまい、巨大ロボットの世界が広がり進化していく様子を時々チラチラと覗き込むだけで、ほとんどは距離をとって眺めるだけになりました。

「日本の巨大ロボット群像」会場より

海外も含めたロボット文化で思い出すのはアイザック・アシモフがSF小説『われはロボット』(1950年)に登場させた「ロボット工学の三原則」。工学の原則といいながら、SFにミステリ要素をうまく付加して物語を広げていく画期的なアイデアでしたし、ロボットを考えることは人間性とは何かを考えることにつながっているのだと教えられました。しかしそれ以上に、地球人と宇宙人の対立と共存、ロボット差別や反ロボット運動などを描いた『鉄腕アトム』は先駆的だったと思います。人間と機械(人工知能)の関係(共存というか、共栄というか)は、きわめて現代的なテーマです。さすが手塚治虫。幼いわたしは、そういうちょっと重たい問題を意識させられるのが苦手だったわけです。
歳をとったせいか、最近では「なりたいロボット」も気になります。5、6年ほど前の『ニーア オートマタ』というアクションRPG(ビデオゲームでアニメ化もされた)には、異星人が製造した兵器である機械生命体(みごとにロボットらしいロボット)が、地球を侵略して破壊しているくせに、いつしか人間の文化に興味を持ち、人間になりたがって…という設定があるんです。これを迎え撃つ地球側も戦闘員は人外のアンドロイドで、彼らも自らの意思と感情を持つ、持たないという葛藤があって…というような「なりたいロボット」全開の作品で、廃墟とロボットのスクラップに、心をつかまれました。
番号で呼ばれる鉄人よりもアストロボーイ(アトム)のほうがずっと人間(ボーイ)ですし、グローバルというか、海外の人たち、特に欧米の人たちにも理解しやすいのでしょうか。しゃべりもしないし感情も持っていない「あくまでロボット」には共感しにくい。ただ、巨大ロボットのメカっぽいのが変形したり合体したりするのは理屈抜きに好きだし…ということで巨額の製作費をかけて映画『トランスフォーマー』(ロボットじゃなくて宇宙人ですけど)を作ったのかなあ。巨大ロボットと怪獣がバトルする『パシフィック・リム』のようなウソみたいに日本的な世界観の超大作もありますが、巨大ロボットが物語の中心に立っている世界は間違いなく日本独特のものです。そうです。「日本の巨大ロボット群像」は、展覧会タイトルに「日本の…」とつけなくても問題はありません。海外にはこういう群像、ありませんから。「日本の…」とつけているのはわざと強調しているのでしょう。


ところで、わたしたち日本人は「鳥獣戯画」のむかしから、擬人化・キャラ作りは得意でした。民族的特技といってもいいくらいです。まんがやアニメのヒーロー・ヒロイン、怪物、怪人、妖怪、怪獣なんかの、ヒトガタのバリエーションをみても、民族的な才能なのは明らかです。キャラが主導でストーリーを紡ぎだす。日本で生み出された無数のキャラが世界を席巻している現状も納得です。コスプレまで伝染するとは意外でしたけど。アニメを実写化したくなる性癖の持ち主なら納得ですかね。
「あくまでロボット」の同類を、ロボット以外の日本文化でさがすとしたら、妖怪の一種である「付喪神(つくもがみ)」が近いかもしれません。ちょっと待って。『妖怪人間ベム』は「はやくニンゲンになりたーい」だったのではと反論されそうですね。でもね、ベムもベラもベロも彼らが活躍している町も、どう見ても日本じゃないでしょ。『妖怪人間ベム』は、ヒトが一番エライ世界、西洋文化の妖怪です。「オバケにゃ学校も試験もなんにもない」から人間よりも楽しいのが日本の妖怪なんじゃないかな。
「付喪神」は人間に長く使われてきた道具に精霊が宿ったものなのでロボットに近いような気がします。人間じゃなくて精霊がリモコンを動かしてるのでロボットではなくて妖怪なのですね。悪さもする。そもそも百年経った道具たちは人間になりたくて「付喪神」になったわけではないのです。人間なんぞ無視して神的な、妖怪的な、ヒトとは別の存在になったのだと思います。
それって日本のアニミズムでしょと言われてしまうとそれまでなんですが、そのうち古くなって、壊れて、役にたたなくなって、捨てられてしまうのが道具です。そんな道具を、神さまはさすがにちょっとおこがましいからと「付喪神」にする。モノに対する愛着は、職人的な気質から来るのかもしれません。「日本の巨大ロボット群像」を見ていると、そういう職人気質も感じてしまいます。ヒトとヒトは対立し、争いもするけれど、ヒトとモノはつねに幸せな関係だというような感覚があるのかもしれません。
さて、今回はずい分長くなってしまいました。お付き合いいただき感謝です。でもこんなふうにグダグダと書いてきて、やっと4、5歳のわたしがアトムではなく鉄人に惹かれた理由もわかった気がします。わたしは鉄人を操縦する少年探偵金田正太郎が好きだったわけではないのです。嫌いでもないですけど。あくまでもロボットの鉄人が好きでした。鉄人はロボットです。あんなに大きくて強いけれど、自分が持っているオモチャと同じモノです。たぶん、そのうち古くなって、いつか壊れて、最後は捨てられる。動いていない鉄人の絵を眺めていて、わたしはそれを知りました。だから大好きだったし、だから「ロボット」という響きに、郷愁をおぼえるのです。

(総館長 中山喜一朗)

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