2025年8月5日 10:08
4年前の夏、残業して深夜に帰宅した時のお話です。怪談ではないのでご安心を。
自宅マンションのエントランスを入ると、エレベータの前に高校生くらいの女子が立っていました。たまに見かける人なので同じマンションに住んでいるのでしょう。
「こんばんは」と挨拶しても返事はなく、なんだかソワソワした様子。エレベータの扉が開いても、彼女は乗ろうとしません。あ、そうか、このくたびれたオッサンが怖いんだな。
「お先にどうぞ。行って下さい」
そう言ってあげるしかありませんでした。
すると「あ、いや、あの…」と手をパタパタ横に振りながら2秒ほどの間をおいて、彼女はこう言いました。
「ゴキブリ、倒せますか?」
敬遠球を打たれてピッチャー返しをくらったような気分でした。
聞くと、さっき帰宅したら玄関扉の前にでっかいゴキブリがいたので引き返してきた。家族に連絡したがみんな怖がって扉を開けられない。困っていたところにオジサンが現れたので助けを求めた、と。
「よし。うちから殺虫剤とってくるけん、ちょっと待っとき。」
かくして私は右手にゴキジェット、左手にチリ紙をもって決闘の場へ。
玄関の前で佐々木小次郎のように泰然と待ち構えるは、なるほど対峙した瞬間に引き返したくなるほど巨大なクロゴキブリ。うす暗い通路の照明をうけて艶めかしいほどの光沢を放つその姿に一瞬ひるみましたが、勝負は一撃で決しました。息絶えたコジローはチリ紙に包んで持ち帰ってあげました。後日、彼女は親御さんと一緒に菓子折をもってお礼に来てくれました。
さて私は、善いことをしたのでしょうか、悪いことをしたのでしょうか。
困っている人を助けて、菓子折をいただくほど感謝されたということでは善い行いに違いないけれども、そのために、ただそこに居ただけの虫を殺すことは、悪い行いに他ならないのではないか。だってシッシッと追い払えば済んだ話だもの。いやまて、でも、うちで同じことが起きたらやはりゴキジェット使うだろうな…
そもそも私は、虫好きを自任しています。エンマコオロギはその鳴き声が好きで、季節になると好んで捕まえて飼育して愛でたりするのに、それと外見や雰囲気のよく似たゴキブリには、視界に入ってきたとたんに拒絶反応を示します。
ついでにいうと息子が世話しているムーアカベヤモリは生きた虫しか食べず、困ったことにコオロギが好物なのです。だからAmazonで餌用コオロギを定期購入して、ヤモリの食料庫ということで飼育しています。成長した餌用コオロギが美しい声で鳴き出すと、とても複雑な心持ちになります。
こういう行為の善悪を問いだすと、キリがありません。
同じような種であっても、自分に何らかの不都合をもたらす生き物と、自分に一定の幸福をもたらす生き物に接するとき、誰しもこのような自問をすることがあるはずです。
コジローを倒して感謝された私は、この問題を思い出すことが多くなりました。
ほんとうにむずかしい問題というのはね、「答えが出せない問題」じゃなくて、「答えがたくさんあって正解がない問題、あるいは、どれもが正解であるような問題」のことなんだ。(内田樹『街場の現代思想』文春文庫、2008年)
まさにその通りです。
善でも悪でもないと同時に、善でも悪でもあるのだ、と片づけることは出来ます。
大切なのは、まず様々な「答え」の存在を知ることはもちろん、自分なりに最も適切と思う「正解」を導き出すことよりも、そのためにあれこれ思いを巡らし、考え続けるという行為それ自体にあると思います。善と悪、是と非、美と醜、真と偽など、事象や物事への価値づけにつながるそれぞれの対立概念の間にある混沌に心を寄せるほどに、誰かが決めた、あるいは自分なりに導き出した「正解」を、いろんな角度から捉えることができるようになるのではないでしょうか。
私自身は、どれだけ思い考え続けたところで、台所をコソコソと這い回るゴキブリを看過できるような心境に至ることは当面ないと思っていますが、しかしゴキジェットの噴射レバーを引く瞬間までに胸中に去来する想い、指にかかる重みをかみしめるようにはなるでしょう。餌用コオロギをピンセットでつかまえてヤモリのケージに運ぶときも然り。いずれヤモリが寿命を迎え、次の飼育の是非を検討するときは、息子と色んなことを話し合うことでしょう。
「多様性」を受け入れることと「包摂性」を高めることの重要性が叫ばれて久しく、さらに重要視されている昨今です。誰の耳にも分かりやすく、大切であることが自明の理念であるのに、実践することがいかに難しいことか。私はその入口の扉を、恥ずかしながらアラフィフになってようやく見つけたような気がしています。
美術館のブログなのに、美術(アート)のことは全く言及しませんでした。
美術(アート)の存在価値というのは、この「多様性」、「包摂性」に深く関与するものだと思っていて、以前もブログで少し触れました(「買い物あるある」を「美術鑑賞あるある」に)。そのあたりを少し深めて、季節の体験談をダシに書きなぐってみようと思ったのですが、虫ネタを選んだら思わず長くなってしまいましたので、稿を改めます。興味をもって下さった方は、どうか気長にお待ちください。
(学芸課長 後藤 恒)