2023年11月8日 11:11
10月25日(水)より、古美術企画展示室にて「仙厓展」を開催中です。本展では、ユーモアあふれる画風で禅の教えを分かりやすく伝えた仙厓さんの作品を18点紹介しています。
観音さまの姿を優しいタッチで描いた作品や
《観音菩薩図》 江戸時代 19世紀
博多で暮らす人びとを題材にした作品
《子孫繁昌図》 江戸時代 19世紀
かわいらしい動物を描いた作品
《犬図》 江戸時代 19世紀
など仙厓さんの多彩な画業を幅広く楽しめるラインナップです。
できるだけ偏りがないように展示作品を選んでいますが、円相図だけはテーマ被りを承知で2点の作品を展示しています。
円相とは禅僧が自らの悟りの象徴として描くもの。つまりこれらは仙厓さんの悟りそのものということです。
まずはそれぞれの作品を見てみましょう。
①円相図
②円相図
いかがでしょうか。円を描いてその隣に賛(コメント)を添えるのは共通しますが作品からうける印象は随分と異なります。両者の印象の違いを決定づけているのは賛でしょう。①には見るからに長い文章が書かれています。内容を要約すると、世の中には仏教、儒教、老荘思想、神道など様々な教えがあるが、この円はそれらすべてを包み込むものである。それぞれの教えの違いをことさらに強調するのは円の中にある模様をわざわざ見つけ出して区別するようなもので、意味のないことである、といいます。ここには、違いではなく共通点に目を向けようという、仙厓さんの宗教者としての姿勢が示されています。
一方、②の方はいかがでしょうか。「これくふてお茶まひれ」(これでも食べてお茶でもどうぞ)というシンプルな賛が寄せられています。自身の悟りの象徴である円をお茶菓子のようにぞんざいに扱うところに仙厓さん特有のユーモアが発揮されています。
このように一見、全く異なる性格の作品に感じられる2つの円相図ですが、実は、根っこの部分では通じ合っています。
まず、①の円相図は仙厓さんが50代~60代に描いた作品。聖福寺の住職として現役バリバリだった仙厓さんは、自身の修行や弟子たちの指導のために絵を描くことも多かったでしょう。①のようにマジメな作品を数多くの子としています。こうした仙厓さんの画風に変化が生じたのが63歳で聖福寺を隠退した後のことです。お坊さんだけでなく、博多で暮らす人びとのために絵を描く機会も増えたようです。その結果、マジメな画風から親しみやすい画風へと少しずつ変化していきました。加えて、賛の内容もできるだけ短くシンプルなものへと変わっていきます。そうなると、短い言葉でいかに言いたいことを伝えるのかが課題になってくることは想像にかたくありません。
これを解決するために仙厓さんがとった方法は“言葉で伝えるようとすることをやめる”ということでした。①の円相図で示されるように仙厓さんの宗教者としての主張は、“違いではなく共通点に目を向ける”ということです。これは、“みんなで同じ思いを共有する”と言い換えても良いでしょう。これを実現するための手段は言葉である必要はありません。そもそも、禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ:法は言葉で表すことはできない)、以心伝心(いしんでんしん:言葉ではなく心から心へと伝える)など言葉よりも体験による心のつながりを重視します。
仙厓さんにとってより重要だったのは言葉を尽くして説明することではなく、心で伝えること、すなわち、絵を見ることを通してみんなが同じ思いを共有することだったのです。
このように見ていくと、真摯な宗教者であった仙厓さんがゆるくてかわいい絵やユーモアあふれる絵を数多く描くようになった理由も得心がいくのではないでしょうか。みんなが同じ思いするために“かわいい”や“面白い”は非常に強力なツールだったのです。
仙厓さんの絵を見ていると、この作品には禅の深い教えが潜んでいるのではないか?とついつい深読みしてしまうことがあります。こうした見方ももちろん誤りではありませんが、本ブログでご案内したとおり“かわいい”、“面白い”と思ってご覧いただく見方も大正解だと思います。
展示は12月17日(日)まで。是非会場へお越しください!
(学芸員 古美術担当 宮田太樹)
2023年11月1日 09:11
さて、来たる2024年1月5日(金)から「永遠の都 ローマ展」が開催されます!
ローマといえば歴史と文化で有名ですが、気になるのがその見どころ。このブログでは、ローマのカピトリーノ美術館の選りすぐりのコレクションの中から1点をちょっとだけマニアックにご紹介したいと思います。では、さっそく見てみましょう。
こちら《ディオニュソスの頭部》と呼ばれる大理石の胸像です。
タイトルにもあるディオニュソスとは、酩酊と豊穣の神ディオニュソスを指しバッカスと呼ばれることもあります。
この作品を見て「これ知っている!」と思ったあなた。美術部もしくは美大出身の方ですね?
実はこの像は「アリアス」という名前の石膏像の原型でして、全国の高校や美大や美大向けの予備校で石膏デッサンの模型としてしばしば活用されているほど有名な像なのです。
福岡市美術館にもアリアスの石膏像がありますよ。
石膏デッサンを知らない方にはちょっとご説明を。石膏デッサンとは、白い石膏像を鉛筆や木炭で紙に描くことを指しており、何度も繰り返し描くことで、技術の向上につながるというもの。なので、絵画、彫刻、工芸のジャンルに限定されずに美術に関わりのある(あった)方は結構な確率でこの石膏像を描いた経験がある訳です。
福岡県内の中学校図画教室での授業の様子(『石膏模型目録』菊池石膏より)
さて、この「アリアス」と呼ばれる石膏像ですが、名前の由来や理由について少々調べていたところ、ひょんなことから昔の石膏像のカタログを入手することが出来ました。
これは日本最初の美術教育機関である工部美術学校(現東京芸術大学)にしばしば納品していた石膏業者が作成したものです。(ちなみに社長の菊池鋳太郎は彫刻家でもあります。)
ここで件の石膏像を見つけました。
目録に記載の石膏像(『石膏模型目録』菊池石膏より)
画像の右側の写真を見てみましょう、「大型婦人胸像」と書かれています。この時点で既に女性と認識されていますね。繊細に彫りこまれた頭髪である一方、首は太く、顔立ちは中性的、確かに女性にも男性にも見えます。実は工部美術学校設立後すぐとなる1877-1878年頃には既に入手し活用していたようです(本展出品予定の松岡壽《工部美術学校画学教場》参考)。また、時を経て1955年には、石膏デッサン解説書籍の事例として「アリアス」が特集され、名前の由来についても言及されていました。以下は引用です。
「画学生の間ではアリアス(アリアドネ)で通っていますが、現在はバッカスとされている、ローマカピトール美術館所蔵のギリシァ彫刻によっています。鼻や下唇は後に補修されたのですが、もちろん石膏像ではあらわれていません。」(小磯良平、宮本三郎、鈴木信太郎『デッサンの技法』1955年)
今回紹介しているディオニュソスにはアリアドネという妻がいました。ディオニュソスとアリアドネは仲が良く、さらに出会いのエピソードがなかなか強烈なためか、絵画等でも一緒に描かれることがあります。つまり「アリアス」は「アリアドネ」に由来する、さらに言えば美術学校が設立して早い段階から「婦人像=アリアドネ」と認識されていたと仮定することが出来るのですね。「アリアス」呼びの勘違い?は実はかなり歴史も奥も深かったようです。
《ディオニュソスの頭部》は本展の特集展示にて紹介予定です。ぜひ足をお運びください!
(学芸員 近現代美術係 渡抜由季)
「永遠の都 ローマ展」
会期: 2024年1月5日(金)〜3月10日(日)
会場 :特別展示室
2023年10月25日 09:10
-10月25日(水)から「幻の古陶・現川焼―田中丸コレクションを中心に」展が始まります。そこで今回は、一般財団法人田中丸コレクションの久保山学芸員より寄稿いただきました。-
〝現川焼〟というやきものをご存じでしょうか?
余程のやきもの好きでもない限り、ご存じないかもしれません。
そもそも何と読むのか?という声が聞こえてきそうですが、〝現川〟と書いて〝うつつがわ〟と読みます。
江戸時代に肥前国(ひぜんこく)彼杵郡(そのぎぐん)矢上村(やがみむら)現川というところで焼かれたため、地名にちなみ〝現川焼〟と呼ばれています。
一般的にあまり知られていないのには理由があります。
江戸時代のわずかな期間しか焼かれておらず、忽然と歴史の表舞台から姿を消したやきものだからです。そのため伝世品が少なく、なかなか目にする機会がありません。
現川焼 刷毛地抱銀杏輪花皿(田中丸コレクション)
その現川焼の展観を10月25日(水)から12月17日(日)まで1階の古美術企画展示室で開催します。福岡市美術館と田中丸コレクションの現川焼22件を展示し、リーフレットの解説では現川焼の歴史とそのルーツに迫ります。
その下準備がようやく終わり、あとは展示作業やリーフレットの納品を待つばかりとなったある秋の日―。
現川焼が焼かれていた場所は、今どうなっているのだろうか?と、ふと気になり、長崎市現川町を訪れてみることにしました。
福岡市内から長崎市現川町へは、車でおよそ2時間。
現川町は長崎市の東部に位置しています。
長崎市のホームページによると、321世帯で人口671人(2023年9月30日時点)の小さな町です。
最初に向かったのはJR現川駅です。
JR現川駅
この駅は山間部にある小さな無人駅で、周囲にはコンビニや飲食店も無く、駅の佇まいは古き良き昭和の匂いを感じさせてくれます。
私が現川駅に到着したのが、午前10時過ぎ。
この日は祝日とあってか、ホームにはたくさんの人が長崎駅行の列車を待っています。
意外と言っては失礼ですが、利用客が多いのには驚きました。
それもそのはずで、JR長崎駅へは2駅と近く、長崎本線の列車に乗れば12分ほどで着くそうです。
そういえば、現川駅へ向かう途中、町の入口には真新しい家が建ち並んだ新興住宅地があり、近年、現川町へ移り住む人が多いのかもしれません。
さて、次はいよいよ現川焼を焼いた登窯の跡「現川焼陶窯跡(県指定史跡)」を目指します。
今から300年ほど前の窯跡なので、はたしてどうなっているのやら。
前もって地図で調べると、深い森の中にあり、現川駅からは歩いて行ける距離。
ちょうど天気も良かったので、現川町の風景を楽しみながらぶらぶらと歩くことにしました。
深い森の中に眠る現川焼陶窯跡(観音窯跡)
現川駅を後にし、高城台小学校現川分校跡を通り過ぎると、小さな川が流れています。
この川が〝現川〟の地名の由来となった〝現川川〟です。
現川川
地名辞典によると〝現川〟というのは「細長い地形を流れる川」を意味するとのこと。
この現川川に沿って上流の方へ進んで行くと右手に「現川焼陶窯跡 165m」という案内標識が見えます。
その矢印に従いながら、民家の間の狭い路地を通り抜けると墓地に突き当たります。
ここにも親切に「現川焼陶窯跡 25m」の案内標識が設置されています。
現川焼陶窯跡の案内標識
目的地までは、あと25mです。
と、その矢印が示す方向を見た時です。
山道が倒木で塞がれ、宙には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされて、行く手をはばんでいるのです。
鬱蒼とした森の中へ続くその山道は、人ひとり通れるほどの狭さで、この道以外に歩いて行けるようなところも見当たりません。
一瞬たじろぎましたが、せっかく福岡からはるばる来たのに、これぐらいのことで引き返すわけにはいきません。
しかも、あと25mなのです。
あまり気持ちが良いものではありませんが、そのへんに落ちている棒切れを拾い、蜘蛛の巣を払い落としながら、その急斜面の山道を登ることにしたのです。
この日の天気は曇りのち晴れで、気温は25℃。
前日の雨のせいで湿度が高く、ぬぐってもぬぐっても汗が滴り落ちてきます。
そして、息も絶え絶えにようやく倒木のところまでたどり着いた瞬間、今度は前方から「シャーッ」という何やら不気味な音がし、恐る恐る音のする方を見ると、倒木の上でヘビがとぐろを巻いて威嚇してきたのです!
さらに、その倒木の向こうには、羽音を立てて浮遊するスズメバチの群れ!!
私の顔から一瞬にして表情が消え、一目散に逃げ出したのは言うまでもありません。
〝泣きっ面に蜂〟とは、まさにこのことです。
そして、なぜだかわかりませんが手の指が痒い―。
現川町を後にした帰りの車の中で、この続きは寒い冬の季節にしようと、少し赤く腫れた指をさすりながら一人呟くのでした。
一般財団法人田中丸コレクション 学芸員 久保山炎