開館時間9:30~17:30(入館は17:00まで)

メニューを閉じる
ホーム > ブログ
福岡市美術館ブログ

新着投稿

コレクション展 古美術

コレクション展のつくり方

本日から「秋の名品展」が開幕いたします!と言いたいところだったのですが、福岡コロナ特別警報、緊急事態措置に伴いコレクション展示室は閉鎖中(~9月12日)。皆様に展示をご覧いただけるのはもう少し先になりそうです…。
コレクション展示室にお客さまをお迎えできないことは大変残念ですが、あえて前向きなことをあげるとしたら、展覧会準備にいつも以上に時間をかけられるようになりました。

 ということで、今回のブログでは「コレクション展ってどういうふうに作っているの?」という疑問について、今準備を進めている「遊びと笑いの日本美術」展(9月14日から開催予定、以下「あそわら」展)を例にお答えいたします。

① 前年度:年間スケジュールの作成
 当館では毎年3月頃を目途に次年度の展覧会のラインナップを公表しています。コレクションを展示する部屋は全部で6室。1年間ほぼ展示替えをしない部屋もありますが、多くの展示は2~3か月ごとに展示替えを実施します。

年間スケジュール

ちなみに今年度実施するコレクション展の数は全部で22本。学芸員1人あたり4~5本程度のネタを考える必要があります。ですから、場合によっては「とりあえず、タイトルだけ決めて中身は後で考えよう」なんてことも。「どうしてこんなテーマにしたんだろう…」と過去の自分をぶっ飛ばしたくなるくらい後悔することもしばしばあります。

② ~1カ月前:展示プラン・作品リストの作成
タイトルが決まったらいよいよ実際にどの作品をどのように展示するのかを考えます。プランをどういうふうに作っていくのかは学芸員によって様々でしょうが、私の場合は根幹となる作品を最初に決めてその後に枝葉を繁らせていく、という作り方が多いです。
今回の「あそわら」展では、《異代同戯図巻》という絵巻物をメインに据えることにしました。この絵巻は江戸時代に描かれたものですが、人びとを救済する観音様が銃を構えていたり、仏教の守り神である韋駄天が凧あげに興じていたりと、全編にわたって小ボケが散りばめられています。すべて広げると13m以上にもおよぶこの絵巻の魅力をあますことなく紹介したい、というのが本展のテーマです。

銃を構える観音様。

凧あげを楽しむ韋駄天

ただし、300年以上前に描かれた作品ということもあり、現在の我々には笑いどころが伝わりづらいボケも少なくありません。そこで、当時の人々がどのようなことに遊びや笑いを見出していたのかを感じられる作品で脇を固めることにしました。
さて、展示する作品がおよそ決まってきたら、展示室の図面上に落とし込んでみます。この作業の詰めが不十分だと、実際の展示してみた時に、「作品の間隔が詰まりすぎてる」「この作品同士が隣り合ってるの、なんだか気持ち悪い…」などなど様々なトラブルに見舞われてしまい、過去の自分をぶっ飛ばしたくなるくらい…(以下略)

③ ~1週間前:キャプション・パネル類の作成←今ここ
作品が決まったら次に待っているのが作品情報や解説を記載したキャプション作成です。解説文は過去に作成したものを転用する場合もありますが、「あそわら」展のようにテーマ性の強い展示の場合はすべて書き下ろした方が全体の統一を図りやすいです。キャプション以外にも、展示のテーマに沿った章解説や学芸員の小ネタを盛り込んだおもしろキャプションを作ることもあります。

「あそわら」展で掲示予定のおもしろキャプション。内容よりもキャッチコピーを考えるのに苦労することが多いです。

ちなみに、当館のキャプション・パネル類は担当学芸員が書いたものをそのまま掲示するのではなく、複数の学芸員が内容を確認するようにしています。

ダブルチェックを終えた原稿。思ったよりは修正が少なくて一安心。

文章が専門的になりすぎていないか、だれが読んでも意味が分かるか、などをチェックすることが目的です。場合によっては、おびただしい量の訂正が入った原稿が返ってくることもあります。これが展覧会直前となると事態はより深刻です。「もっと早くとりかかれば良かった!」と、過去の自分を…(以下略)

④ ~前日:展示作業・開幕!
以上の準備作業をへて、いよいよ展示作業です。

展示作業については、過去にYoutubeの動画でご紹介したことがあるので、興味がある方はご覧ください。

13m以上の絵巻を広げた展示室がどのような空間になるのかわくわくします。

「遊びと笑いの日本美術」展、どうぞご期待ください!

(学芸員 古美術担当 宮田太樹 )

 

 

 

 

 

その他

インカ・ショニバレCBE《ウィンド・スカルプチャー(SG)Ⅱ》設置記念シンポジウム 「新しい美術館像~コロナ禍の中で考える」を終えて

 7月1日に当館のアプローチ広場にインカ・ショニバレCBE《ウィンド・スカルプチャー(SG)Ⅱ》が設置されたことは、このブログでも何度か紹介されています。それを記念して、7月31日(土)にシンポジウムを開催しました。基調講演には、2016年、リニューアル前のシンポジウム「これからの美術館」にもご登壇いただいた逢坂恵理子国立新美術館長をお招きしました。このブログでは、簡単ではありますが当日の内容についてご紹介したいと思います。参加できなかった方も、その時の様子を味わっていただければ幸いです。
 
 シンポジウムは、まず当館の岩永悦子館長による「リニューアル後の福岡市美術館」で始まりました。最初に語られたのは《ウィンド・スカルプチャー(SG)Ⅱ》が設置されミッション・ステートメントが公開されたことで、当館の「リニューアルオープン期間」が完了し、新しい段階に入ったということでした。そこからリニューアルオープン展から現在までの振り返りがなされました。リニューアルオープン展が、所蔵作品をじっくり見てもらう「コレクション展」と、日本ではあまり知られていないインカ・ショニバレCBEの個展という二つの軸があり、「これまで」を大切にしながら新しい事柄にも挑戦するという館の意気込みを表すようなものであったこと、しかしその1年後にはコロナ禍となり、中止になった展覧会やさまざまな催しがあったこと、だからこそチャレンジしたオンラインでの試みや地元のアーティストのKYNEによる壁画作成などが紹介されました。そして、《ウィンド・スカルプチャー(SG)Ⅱ》設置に寄せたインカ・ショニバレCBEの言葉を引用しながら、このコロナ禍でも誰もが見ることができるパブリック・アートの平等性と重要性を訴え、それは当館の未来を象徴するものであると話し、逢坂館長の基調講演へとつなぎました。

 続いて逢坂館長による基調講演「新しい美術館像~コロナ禍の中で考える」ですが、その冒頭は、2016年のシンポジウムで逢坂館長自身が最後に紹介した、ニコラス・セロータ(当時のテート・モダン館長)の「美術館は生きた学びの架け橋」という言葉で飾られました。それから5年、「架け橋」となるべく、美術館はさまざまな活動を行ってきたはずなのですが・・・その後に続いたのは、コロナにより、日本社会の分断や亀裂、格差というものが明るみになったというもの。しかし、世界的には、デジタルが発達したからこその実体験が重要視されるようになったこと、Black Lives Matterに代表されるような人権への自覚、そして、地球環境への関心の高まりや、自己責任だけで片付けるのではない助け合い・チームワークの重要性に気づくといった良い面もあるという指摘もありました。また、このコロナ禍での「文化活動は断じて不要不急ではない」という都倉文化庁長官の言葉は、文化芸術に携わる人間に、社会における文化芸術の役割を自覚させ、勇気と希望を与えたと述べられました。
 さらに、実はコロナ禍以前からミュージアムをとりまく社会が変化しているという話が続きました。例えば、国際博物館会議(ICOM)が2019年に出した新しい博物館定義案。そこには、単に博物館の機能を示すのではなく、「対話」「社会正義」「全体の幸福」などの言葉が盛り込まれ、ミュージアムが社会課題に向き合うことについて大きな期待がよせられていることが語られました。そして「SDGs」という世界的な目標もまた、ミュージアムが意識すべき社会の動きであること、さらには、「VUCAの時代」と称されるまでに、社会が変動し不確実で複雑で曖昧になってきていることがあげられました。
 
 ですが、そのような希望と不安がないまぜになるような社会においてこそ、アートが持つ潜在的な力が必要であると、逢坂館長は述べられます。効率や画一性とは無縁である、対象をよく観察しなければわからない、五感をフル活動させるアナログ的コミュニケーションを促す、価値の異なる人々との共生をうたうなど・・・中でもアートが必要とする「想像力」は、この曖昧で予測できない社会を乗り切るためにとても大切だとおっしゃったのは印象的でした。そして、そのような「アート」を扱う美術館が、今後持続可能であるためには(もちろん課題もたくさんあることは述べられたうえで)、美術館で働く人間が、「美術を介して思考と対話を重ね、人間としての幅と深さを施行する場」であることを自覚することが重要であると言われました。そして、その自覚から来る活動が、人々に、対立・暴力・戦争といった社会課題を自分事として受け止め、回避する行動を促すと、トルストイの言葉を引用しつつ述べられました。この言葉は、我々美術館関係者だけでなく、会場にいる参加者にも強く響いたのではないかと思います。さらには、美術館がそうあるために、学芸員だけでなくすべての美術館職員に、美術作品やアーティストへの敬意と愛情と、内にも外にも開かれた自由な意識がなければならないということを述べられました。
 そして、冒頭の「美術館は生きた学びの架け橋」に呼応して、最後にアーティスト、アイ・ウェイウェイの言葉「アートは人とかかわるための架け橋」という言葉で講演を締めくくられました。


 さて、休憩をはさみ、シンポジウムの後半は、逢坂館長と岩永館長に加え、中山喜一朗総館長によるパネルディスカッション「コロナ禍後の福岡市美術館を描き出す」です。最初の話題はまずはコロナ最中の話から、「このコロナで大変だったこと」でした。海外からのアーティストが来られなくて、すべてリモートで作品設営をしたことや、特別展が中止になり担当者ががっくりきていたこと、そして、もっとも衝撃だったのは、コロナ禍のために永遠に閉館する美術館が出てくるだろう、という話でした。また、デジタル化が加速化していることについての希望と懸念も語られました。次に、そのような困難な中、今後、人々とコミュニケーションを保つために美術館は何ができるのか、ということが話題になりました。それについては、なかなか答えは出ないものの、まずは来館してきた人たち一人一人と向き合う事が肝要ではないかということが話され、さらには、人々がなんということはない自分の時間を過ごせる場を、ちゃんと美術館が提供できるということが大事なのではないか、という話になりました。最後に、一人ずつ、締めくくりの言葉を述べてもらいました。岩永館長からは、人々のために美術館は開けておくべきということ、中山総館長からは、こういう時だからこそ保守的になってはいけないということ、そして逢坂館長からは「皆さん、選挙に行きましょう」という意外な言葉が発せられました。つまりは、「一人一人が自分事として社会に関わる」ことの大切さをこのように言われたのでした。
 「コロナ禍後」を明快に描き出すことはできませんでしたが、おぼろげながら未来への希望が見えてきたところでシンポジウムは閉幕となりました。

 思うに、決して明るい話題ではなかったにも関わらず、希望と勇気のもらえた2時間でした。参加者の皆さんの顔も、心なしか来た時よりも帰りは晴れやかだったように思います。筆者を含め聞いていたスタッフも、ここで語られた事柄を一つ一つかみしめ、気持ちを新たにすることができたのではないでしょうか。
 今、私たちは、コロナ禍という未曽有の体験をしているわけですが、結局はそれを乗り越え、社会の変容にしなやかに適応しつつ対抗するのも自分たち次第なのだと改めて気づかされたシンポジウムだったように思います。

(主任学芸主事 教育普及専門 鬼本佳代子)

コレクション展 古美術

「買い物あるある」を「美術鑑賞あるある」に

スーパーで買い物をすると、つい要らないものまで買ってしまいますよね。
仕事帰りでお腹が空いている時は、なおさらです。牛乳と納豆を買えば済むものを、鮮魚コーナーの高彩度LEDに照らされた刺盛に手が吸い寄せられます。割引シールが貼られていようものなら抗うことは困難に。スナック菓子にアイスキャンデーも詰め込んだ買い物袋を携えて帰宅し、腹をすかせた息子たちの歓喜に迎えられて複雑な心持ちを噛みしめるのです。
スーパーの商品陳列の配置には、来店客の利用のしやすさだけでなく、購買意欲を刺激するために考えぬかれた様々な工夫、イジワルな言い方をすれば「仕掛け」がちりばめられていることはよく知られています。わかっちゃいるけど買わされてしまう、それだけ巧妙に考えられているようです。
そして不思議なことには、まんまと買わされた!と後悔しても、次の日には、切らしていた卵とバナナを買うために入店し、さんざん息子たちにバカにされた屈辱を忘れてプロ野球チップスを自分の分までカゴに入れようとするのです。そう、反省も、後悔も、不満も、清々しいほどに消え失せてしまうのです。どうしてなのでしょうか?
その理由はおそらく単純なことで、深層欲求が表面欲求に勝るからに他なりません。要らないと思っているものにも、本当に心から不要と思っているものと、本当は欲しいのだけど不要であるべきだと思っているものがあります。スーパーで買わされる物は、もれなく後者に該当するはずです。だから、「買わされた」という使役受身形の行為におのずと積極性を自覚して安心するのであり、さらにいえば、スーパーの策略にしてやられたというフリをして、実は満足すらしているかもしれないのです。いかがでしょうか。

前置きが長くなりましたが、お客さんがこうして「買わされる」仕掛けを、「見せられる」という形で展覧会作りにも応用できたら、すごいことになるんじゃないかなぁと思っています。うまくいけば、まさにワークライフバランスのお手本になるでしょう(違うか)。
一つの展覧会、特に来場者の少ないコレクション展示に陳列する作品群の、一つでも多くを心に留めて帰っていただくために、見たくもないものに注目せざるをえないように仕向けること。「お客さんをたぶらかすつもりか!?」と言われれば、まあその通りなのですが、ご安心を。スーパーと違って、見るつもりのなかったものをどれだけたくさん見せられたところで、追加出費は発生しませんし、食べすぎの心配をする必要もありません。
もとより当館のコレクション展示は一般200円という、内容の充実ぶりからすれば破格の観覧料だと思います。それが破格であることを実感していただくためにも、魅力的な企画内容をはじめ、解説、照明による演出など工夫すべき点は多々あるのですが、スーパーの配置構成を見習うことによって、お客さんにとっての美術体験は良くも悪くも一層に充実したものになるのではないか。

でもよく考えたら、当館では、はからずも既にいくつかの仕掛けはあります。古美術展示室に初めて足を踏み入れる方は、入り口の自動扉をくぐったとたん、右側に、まさに仁王立ちする巨大な阿・吽の仁王像に眼がいくでしょう。阿形像と吽形像の間に立つと、眼は仏堂内の雰囲気ただよう奥の室に誘導されるでしょう。そこには薬師如来の周囲に多くの仏像がたたずんでいます。黒壁を背景にした御像が、3500ケルビンのLED照明にドラマチックに照らし出され、厳粛な空気に満たされています。そうした空間に生理的な嫌悪感や忌避感を覚える人でなければ、自然と足を踏み入れたくなるような、そんな空間です。
いっぽう、リピーターの方は、例えば松永記念館室に常陳されている重要文化財《色絵吉野山茶壺》を見るために入室すると、正面の古美術企画展示室のウォールケースあるいはその手前の行灯形展示ケースに陳列される作品の存在感を無視することはできないはずです。自動扉を入ったときの視界をいかに新鮮にかつドラマチックに演出するかということは、学芸員が展示替えのたびに熟慮していることなのです。
私は、こうした工夫を隅々にまで周到に散りばめて、お客さんをたぶらかしまくりたいのです。以前私がこのブログで書いた「名品展をつくる難しさ」という記事の内容は、そのささやかなる試みの一例です。展示台に置くだけで見る人を魅了できる「名品」を集めた展示は、企画もなにも、置くだけでいいのだから作るのは簡単と思われがちですが、それじゃあ勿体ない、集った名品が全て耀くためには、配置の仕方に相当の苦労を要するのだ、ということを説きました。逆にこのこと以外、とりたてて実践できたわけではなく、口先ばかりでお恥ずかしいばかり。

ともあれ、美術館学芸員として、大小様々な展示を企画してきましたが、それぞれの展示で「見せたいもの(こと)」に対する考え方も、年を重ねるごとに少しずつ変わってきています。ブログで何を書こうかとネタに困った挙句、指の動くままにこのようなことを書いているのも、見たかったものと出会うことと同じくらいに、見るつもりのなかった、さらには見たくもなかったものに出会い、向き合うことは大切だ、否むしろ余程大切なんじゃないかと強く思うようになっているからです。それは、多様性を受け入れる、という当たり前のこと(として誰もが簡単に口にしながら、実践することが非常に難しいこと)の実践にそのまま結びつくように思っているから、でもあります。そして美術館・博物館のものいわぬ展示物を見る行為は、作品鑑賞という楽しみと同時に、多様性を受け入れるための訓練を、誰とも争わず、誰をも傷つけず、誰にも邪魔されずに出来るチャンスなのではないか、と本気で考えるようになりました。
この仕事をするまでは、古美術の中でも研究している分野の作品以外は殆ど見向きもしなかった私ですが、今はどんなテーマの展覧会にも期待をもって足を運び、作品たちに向き合い、良くも悪くも色んな感情が沸いてくるようになりました。見るも華やいだ美しい絵画に見惚れているうちに、これ見よがしの見栄えがだんだん鼻についてきて、不愉快にすらなってくることがあります。いっぽうで、ただ醜くて意味不明とした思えないオブジェを漫然と見ていると、いつぞやの辛かった時の記憶が蘇り、否応なしにそれを反芻しているうちに、それまで自覚していなかった自分の欠点を見つけられたような気がして、えもいわれぬ充実感に満たされたこともあります。どちらの反応も、きっと作家が鑑賞者に対して意図したり、期待したりしたことではないはずです。美術品が備える「美」の正体は、無限に姿を変えて、見る人の見方や接し方によって、自他、彼我、周囲のあらゆるところに潜んでいるようです。
古美術から近現代美術まで広く集める福岡市美術館の展示内容は、実に多種多彩です。出会ってみなければ、向き合ってみなければわからない何らの気づきの機会が、そこかしこに隠れています。どのような目的であっても、展示室に入ったら、出会って都合の良い作品にも、悪い作品にも、どちらでもない作品にも出会うことになります。その何れに対しても自然に向き合い、様々な感情を掻き立てていただける仕掛けを、私はスーパーで日々ついつい「買わされ」ながら模索しています。
ちなみに今日は私、スーパーに立ち寄る予定は、ありません。でも、「なんか買わないかんものはなかろうか」と、買う物を頭の中で探しています。自分が仕掛けた展覧会を見たお客さんが、その後「なんか見ないかんものはなかろうか」と何度も当館に足を運んでは色んなものを見せられて、疲れて、懲りてもまた来てしまう、ということになったらなんと素敵なことか、と思います。頑張ります。

(主任学芸主事 古美術担当 後藤 恒) 

 

新着投稿

カテゴリー

アーカイブ

SNS