2021年6月9日 17:06
6月8日(火)にプレスの皆さんにお知らせしましたように、ついに、6月7日(月)にインカ・ショニバレCBEによる、大型屋外彫刻作品《ウィンド・スカルプチャー(SG)II》の設置が始まりました。高さ7mの大型彫刻作品は、6月末に設置完了予定。今は、まだ仮囲いのベールの向こうに隠れています。
「待ちに待った」とよくいいますが、本当に待ちました。どのぐらい待ったのかというと…《ウィンド・スカルプチャー(SG)II》の設置が決まって、そのデザインが発表された2019年の秋から1年半以上経っています。2020年度の設置予定は、コロナの影響で制作がストップするなどして延びに延びました。
ロンドンでの制作が完了したのち、船便での輸送も迅速に予約ができたのですが、作品を積んだ船が、コロナで渋滞した英国のサウザンプトン港を中々出港できません。やっとサウザンプトンを出発し、徐々にスエズ運河、マラッカ海峡と、近づいてくるのですが、海上輸送ゆえの遅れもしょっちゅう。最後まで「遅れる」「リスケ」の連続でした。それでも、ついにその日はやってきました。博多港到着、そして、通関を経て、コンテナを開ける日が。博多港の某倉庫のなかで、7mの巨体が「トラベルフレーム」と呼ばれる鉄の黒い「ベッド」に横たわったまま、コンテナから徐々に出てきて、福岡の地に降りたのを見届けました。全身、真白のタイベック(梱包材)に包まれた、「長旅の疲れを感じさせない」美しい姿。大事に運ばれのだと感じました。
さて、それから設置の日まで、約10日。設置状況をロンドンにオンラインで中継するために、設置は朝7時開始(ロンドンは23時です)。倉庫での作品積み込み班は5時30分集合。設置班は現場(美術館)に6時必着。設置班の筆者もなんだかんだで、4時起きです。6時には美術館の公園に面したアプローチ広場で、朝日とともに朝礼開始。設置のためのクレーン車と、作品を積んだトレーラーが入ってくるための準備をととのえました。早い時間に設定したので、人も少ないだろうと思っていましたが、6時の大濠公園のジョガーの多さに驚きました(ジョガーの皆さんも何事かと驚かれたと思いますが)。
6時30分。公園の沿路をしずしずとトレーラーが入ってきます。トレーラーはアプローチ広場下段に停車。7時過ぎに、待機していたトレーラーが誘導されながら沿路にゆっくりと入ってきました。クレーン車は、沿路に添って駐車したトレーラーと設置ポイントの間に位置しています。クレーンを使って、横たわった作品をトラベルフレームごとトレーラーから吊り上げ、90度振って仮置きスぺ―ス(アプローチ広場上段)に降ろしました。
そこで、トラベルフレームを一部解体し、今度は、作品の上方にあるアイボルト(頭にリングのついたボルト)から、作品を吊って垂直に立てます。設置現場へとアームを振って、作品のベースプレートの孔と、受けのボルトを合わせます。これまでの打ち合わせが奏功して、正面合わせは微調整で済みました。7時すぎから8時すぎまでの1時間。作品の立ち位置が無事決まりました。これから先の作業を安全に行うため、こののち仮囲いを立てて、今は外からは見えなくなっています。すべての工程が終了するのは、6月末。お披露目は7月1日になります。それまで気を許すことはできませんが、最大の難所を乗り越えました。作業をして下さった皆様、本当にありがとうございました。
長年、展覧会の展示に立ち会ってきましたし、よく文章には「ドキドキ」とか「バクバク」とか書いてきましたが、今回「いままでのドキドキとかバクバクは、気分の問題だったんだ」とわかりました。トレーラーからトラベルフレームが浮き上がる刹那を見極めようとしている時、鼓動が早くなって、肩で息をしていることに気づきました。本当に胸はどきどきする。展示立会では初めての経験でした。たぶん、もう二度とないだろうと思います。
(館長 岩永悦子)
2021年6月2日 11:06
日に日に陽ざしが強くなってきました。黄砂のせいかなかなか青空が見られないのが残念。
福岡も緊急事態宣言が延長され、特別展『高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの』を除いて、コレクション展示やカフェ・レストラン、ミュージアムショップなどはまだ、静かなままです。
いろいろな街のいろいろな美術館が、開いていたり閉まっていたりしていて、微妙な気持ちになります。日々大量の情報にさらされていると、不安とか批判とかが、ふと口をついて出てくるのですけれど(それが求められているようにも感じたりして)、できれば、よいことを発見して、気持ちをポジティブな方に持っていきたいなと思っています。
嬉しかったことのひとつが、都倉俊一文化庁長官が5月に「文化芸術に関わる全ての皆様へ」と題して出された、下記のコメントです。
文化芸術に関わる全ての皆様へ
本年四月二十五日から開始された三度目の緊急事態宣言においては、対象地域におけるすべての文化芸術関係の公演や施設についても無観客化や休業をお願いすることとなり、大変な混乱と御負担をおかけしました。練習や準備を積み重ねてきた関係者の方々、そして心待ちにされていた皆様のお気持ちを考えると非常に心苦しく思います。皆様のご理解とご協力に改めて深く御礼申し上げます。
この度、緊急事態措置を延長するに当たって、催物や一部の施設に関する政府の目安を緩和し、業種別ガイドラインに基づく感染症対策の徹底など、新型コロナウイルス感染症対策へご協力いただくことを前提に、宣言下においても一定の活動を継続いただけることとなりました。
感染拡大のリスクをできる限り抑えながら、文化芸術活動を続けていくことは、不可能なことでは決してありません。したがって、文化芸術活動の休止を求めることは、あらゆる手段を尽くした上での最終的な手段であるべきと考えます。
皆様におかれては、これからも文化芸術に関する活動を、可能な限りご継続ください。文化庁長官として私が先頭に立って、そのための支援に全力を尽くしてまいります。
文化庁に設置した感染症対策のアドバイザリーボードの提言 では、クラシックコンサート・演劇等の公演は、観客が大声で歓声、声援等を行うものではないため、観客席における飛沫の発生は少なく、感染拡大のリスクは低いとされています 。これらの公演については、消毒や換気、検温、マスク着用の徹底はもちろん、観客席で大声を出さないことの周知徹底を行い、入退場時やトイレ等での密が発生しないための措置の実施や感染防止策を行ったエリア以外での飲食の制限、公演前後の練習や楽屋等での対策等を業種別ガイドラインに基づき行えば、リスクを最小限にしながら実施することが可能です。
また、来場者が静かな環境で鑑賞を行う博物館や美術館、映画館等においても、飛沫による感染拡大のリスクは低いと考えられ、消毒や換気、検温、マスク着用の徹底に加えて、予約制の導入等による入退場の適切な管理を行い、展示の種類や態様に応じて密が発生しないような措置を講じるとともに、トイレやレストラン、カフェテリア等における感染防止策を業種別ガイドラインに基づき徹底すれば、リスクを最小限にしながら開館することが可能だと考えられます。
実際に、このような感染症対策が適切に講じられている公演や展示において、来場者間で感染が広がった事例は報告されていません。
これまでの新型コロナウイルス感染症との過酷な闘いの中で明らかになったことは、このような未曽有の困難と不安の中、私たちに安らぎと勇気、明日への希望を与えてくれたのが、文化であり芸術であったということです。
文化芸術活動は、断じて不要でもなければ不急でもありません。このような状況であるからこそ、社会全体の健康や幸福を維持し、私たちが生きていく上で、必要不可欠なものであると確信しています。
令和三年五月 文化庁長官
都倉俊一
i 「文化芸術活動の継続・発展に向けた感染症対策の在り方について」(2021年2月19日新型コロナウイルス感染症対策の推進による文化芸術活動の継続・発展に関する専門家会合)
ii 「クラシック音楽・鑑賞に伴う飛沫感染リスク検証実験報告書」(2020年7月 クラシック音楽公演運営推進協議会 日本管打・吹奏楽学会)では、高性能クリーンルームにおける実験であるものの、マスク着用下であれば、「1席あけた着席」でも「連続する着席」でも、飛沫などを介する感染のリスクに大きな差はないことが示唆されています。)
文化庁のトップがわかりやすい文章で、気持ちもこめて、その意志を明らかにされたことは、とても良かったと思いました。こうした意見の表明があったからといって、すべての美術館が開いたわけではありません。けれど、それぞれの街で開閉館の判断の自由が与えられていたことも、いいことだと思っています。
今、福岡市美術館で見ていただける展覧会は、『高畑勲展』だけなのですが、これだけはいえます。とっても、いい展覧会です。多分、どんな世代の方がいらしても、必ず心に響くもの、残るものがあります。楽しんでいただきたいと思います。
そして、福岡市美術館のすべてが開館できる日を待ちたいと思います。館内では、その準備を着々と進めています。
(館長 岩永悦子)
2021年5月26日 17:05
先日閉幕した企画展「ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画」(以下「イルフ展」)(2021年1月5日~3月21日)では、会期中に2回の記念講演会を開催しました。登壇者には近現代写真の専門家であるお二人のゲスト(名古屋市美術館学芸員の竹葉丈氏、インディペンデントキュレーター[現・東京ステーションギャラリー学芸員]の若山満大氏)をお招きしました。2回の講演はいずれもイルフの活動した1930~40年代の写真家たちが向き合っていた時代状況や複雑な立場を明らかにする内容で、イルフ展で紹介した作品・資料への理解を更に深められるものでした。ここに、担当者による講演会のレポートをお届けします。
「前衛写真(フォト・アヴァンギャルド)の行方―<ソシエテ・イルフ>を巡る写真家たち」(登壇者:竹葉丈氏、開催日:2021年2月27日14:00~15:30、会場:ミュージアムホール)
近現代写真史をご専門として数多くの展覧会を担当されてきた竹葉氏には、名古屋の前衛写真家・坂田稔(1902-1974)を中心に、前衛写真運動の展開についてお話しいただきました。「イルフ展」の会場でも紹介したように、坂田は福岡に3日間滞在し、ソシエテ・イルフのメンバーと交流し、写真観を巡って論争しました。当初「坂田VSイルフ」という構図の実態についてのお話をお伺いできるのではと考えていましたが、坂田研究の第一人者である竹葉氏からは、より踏み込んだ見解をお伺いする事ができました。
まずご紹介いただいたのは、「新興写真」の定義やその実践の場についてです。新興写真とは、1930年代初頭に欧米から日本に紹介されて流行した写真表現のことです。この頃の写真愛好家たちはカメラが持つ機械的な特性に目を向けるようになります。時代や生活の記録、主観を排し現実を直接的に切り取ったイメージ、レンズと光の作用を用いた造形表現、など、写真表現はこれまでとは違う幅広い展開を見せました。その実践の場もまた、展覧会、地元志向の写真雑誌、地域産業の振興を目的とした催しと様々です。名古屋では「20万」とも謳われたほどカメラを持つ人々が増え、一方で、それまでの“旦那衆”の集まりであった写真倶楽部は衰退して行きます。作品の出来映えではなく、「写っていれば良い」とするアマチュアに対して、現像や焼き付け等の技術的サービスを行う「写真技術の店」なるものが隆盛し、やがて地元写真愛好家に向けた雑誌や、文化サロンの役割を果たして行きます。一方、福岡では「地域産業の振興」を動機として新興写真が流行しました。そのことを示す資料が、「イルフ展」で展示していた1937年刊行の『新興写真選集』(福岡日日新聞)です。九州の写真愛好家による福岡の特産品・観光名所などをテーマにした新興写真が収録されたこの写真集は、大都市の新興写真の展覧会や雑誌の開催・発行年数から遅れたとは言え、「新興写真」が目指した写真の機能が地域から発信、活用された事例として大変興味深い資料だと竹葉氏は指摘しました。
名古屋で写真材料店「ジャパン・コダック・ワァク社」を営んでいた写真家・坂田稔はこうした状況下で活躍し、やがて1939年2月、「ナゴヤ・フォトアヴァンガルド」の中心メンバーとして前衛写真運動をけん引しました。講演の後半は、そんな「坂田の行方」を軸に進んでいきました。
講演の中で竹葉氏は、1939年頃の坂田が“前衛写真を宣言すること”を巡って一見矛盾するような発言をとっていることを示しました。アマチュアが前衛写真という言葉を安易に口にすることを警戒しながら、「前衛芸術とは、予想する文化的将来に合致せしむるよう現在の芸術としてさらに前進せしめんがための一切の芸術行動」と宣言していること。前衛写真という言葉の使用を「自粛したい」と言ったかと思えば、アルフレッド・バー・Jrによる「モダンアートの系譜図」を翻訳して雑誌に掲載し、前衛美術の流れの中に自分たちの写真を位置づけようとしていたこと。これらの坂田の言動は、彼の周囲の写真愛好家たちを戸惑わせたことでしょう。
竹葉氏はこの状況を解釈して「この時期に日中戦争の拡大に伴い、報道写真が台頭、注目される中で、前衛写真という言葉とその機能が消される。趣味でやっているだけじゃないかと言われることが怖かったのでしょう」と述べました。当時の文化統制の中で、前衛を冠した美術団体や展覧会は不穏だといって検閲される事例が少なくありませんでした。坂田は必要に応じて「前衛」を大っぴらに語れる場面とそうでない場面を察知し、使い分けていたのかもしれません。
1939年10月14日から16日まで坂田は福岡に三日間滞在してイルフのメンバーと過ごした後、11月にナゴヤ・フォトアヴァンガルドを解散します。竹葉氏は、「この間のことは未だによく分からないが、やはり坂田にとっては、福岡のソシエテ・イルフのメンバーの方が名古屋のメンバーより話が合ったのでは?」と推測します。実際、この頃の坂田とイルフのメンバーの写真の傾向には近いものがあります。イルフが解消した1940年に顕著なのですが、高橋渡や久野久、許斐儀一郎の作品には、民家の壁や建築部材、伝統的な暮らしを営む集落を主題にしたものがあります。同時期に坂田は柳田国男が提唱した「常民」をテーマとした民俗学に接近、この頃に農家の土壁や障子、海鼠壁などを「日本建築の美」が現れた被写体として取り上げていました。「前衛写真が挫折/転向してある程度の成果を見せたかどうかは検討の余地がある。彼らは民家・民藝を撮影した方法で抽象美術の方向を進むことを坂田は信じてやまなかった」。以上の竹葉氏の解釈は、イルフにも当てはまるのかもしれません。
本講演会で語られた内容は、前衛写真に関わった者が戦時体制の中で挫折/転向したときにどのような表現に変容していくか、という問題に踏み込んだものでした。お話を伺うと、坂田が「前衛」を巡って自らの針路と態度を決めかねていた時期に出会い、夜通し写真論を交わしたイルフのメンバーは彼と何らかのヴィジョンを共有していたのではないか、とも思わせられます。イルフが置かれていた状況を多角的に捉える機会となる、貴重な講演でした。
(学芸員 近現代美術担当 忠あゆみ)