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福岡市美術館ブログ

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コレクション展 古美術

VSインド産更紗儀礼用布(インドネシア向け)の巻

現在、古美術企画展示室では「アジアの染織 インド、インドネシア、カンボジア」が開催中です(4月21日まで)。この展覧会では、福岡市美術館の染織コレクションの中から、インド、インドネシア、カンボジアの三カ国に焦点を当て、これらの国々の優れた染織作品を展示しています。中でも目玉のひとつは、18世紀にインドで制作されたとされる《グリンシン文様更紗儀礼用布》です。

《グリンシン文様更紗儀礼用布》

こちらは防染と媒染の技法を用いて染められた木綿の布です。グリンシンとは、インドネシアのバリ島で制作された絣のことで、四芒星が連なる文様を特徴とします。《グリンシン文様更紗儀礼用布》の中央部にも同様の文様が描かれており、そのためこの作品は、インドネシアに輸出するために同地の好みに合わせてインドで制作されたと考えられます。インドとインドネシアの染織文化の交流が感じられる重要な作品なのですが、何と言ってもこの《グリンシン文様更紗儀礼用布》、まず目を引くのはその大きさです。展示室に入って右側のケースの中央にどーんと鎮座しており、その迫力といったら横綱級と言えましょう。縦は2m29cm、横は3m23cm、裏地を合わせるとさらに大きいこの作品は、華やかな染織品が並ぶ中でも圧倒的な存在感を誇ります。最後に展示したのは2014年ということで、10年ぶりとなるこの機会にぜひ展示したい!と思い、展示作品に加えました。しかし、展示プランを考え始めたときの私はまだ知らなかったのです。この作品の展示は、その破格のサイズゆえ、一筋縄ではいかないということを。

その大きさを目の当たりにしたのは作品チェックの時。《グリンシン文様更紗儀礼用布》(以下、グリンシン更紗と呼ばせていただきます)と初対面です。収蔵庫からグリンシン更紗の箱を見つけ出し、腰を痛めるのではないかとひやひやしながら、M学芸員と二人で棚から箱を下ろします。よく見ると、やたら立派な桐の箱。すでに物々しいというか、なんだか威圧感がある…。気を取り直して、さあいざ作品を箱から出して作業スペースに広げてみようとするものの、案の定作業スペースにうまく収まらない。方向を変えたり一部折りたたんだりしてなんとか広げたものの、まず抱いた感想は、「で、でかい・・・」。大きいのは知っていた、知っていたけど、いざ目の前にすると、あまりの横綱感に圧倒されます。こんなの展示できるのか?若干の不安を感じたものの、ありがたいことに、この作品は裏地がしっかり付いており、なんと裏地に棒を通して吊り下げられる部分までありました。これなら問題なく展示できそう!ととりあえず一安心です。

しかし、まだ安心するのは早かった。作品チェックを終え、張り切って古美術のG学芸員に展示プランを見せてみると、「展示ケースの高さって2m50cmだよね、グリンシン更紗の縦の長さは?」とG学芸員。対する私は、「裏地を合わせて2m53cmです」。なんてこった、これでは微妙に展示ケースに収まらない!そんなことある?それにしてもさすが名品、スケールが違うぜ、と動揺しながら感心しつつ、展示プランは練り直しかなーと遠い目をしたところへ、「布の裏側にパネルか台を置いて、布の下の部分を前方に斜めに流すようにしたら収まるんじゃないかな」と一言。それだ!!その手があったか!経験豊かな学芸員の皆さんのアドバイスに感謝です。これでなんとかグリンシン更紗も展示できそう、と胸をなで下ろしました。

展示プランはOKをもらえたものの、やはり最後の難関は実際の展示作業。果たしてこのヘビー級染織品を無事にプラン通り展示できるのか・・・。
どきどきしながら迎えた当日。まずは展示ケースの中に台を置きます。積み木のように台をいくつも組み合わせて、斜めの土台を作りました。

 

グリンシン更紗用の土台。長方形や三角形の台を積み上げています。

さあ、準備は整った。いざ!と、まずは仰々しい桐の箱から作品を取り出しますが、やはりでかい・・・何度見てもでかい・・・。作業台の上で少し広げ、それから展示ケースの中に運び、4人がかりで布を吊るします。

作業台の上のグリンシン更紗。台から溢れんばかり。

作品の裏地に棒を通し、棒を金具に引っ掛け、高さや位置を調整、そして布を広げ、しわを伸ばして・・・。固唾を呑んで作業を見守っていると、ついに、おおー!グリンシン更紗が無事に吊り下がっている・・・。ケースの真ん中にどっしりそびえ立って、なんだか誇らしげにすら見えます。もう感無量としか言いようがありません。近づいてよく見ると、作品の上端は天井すれすれ、下端は地面すれすれ。これがシンデレラフィットというやつか。何はともあれ、無事に収まって本当によかった・・・。最終的に他の作品もプラン通りの位置に落ち着き、展示作業はなんとか時間内に完了しました。

無事に展示されたグリンシン更紗。よかったね!

こうして、最初はどうなることかと思われた《グリンシン文様更紗儀礼用布》との闘いも大団円を迎えたのでした(展覧会終了後の片付けのことはまだ考えないでおきましょう)。その奮闘の成果物たる「アジアの染織 インド、インドネシア、カンボジア」展は4月21日(日)まで。まだご覧になっていない方は、ぜひこの機会をお見逃しなく~。

(国際渉外担当 太田早耶)

 

 

 

 

コレクション展 近現代美術

「オチ・オサム展」記念講演会・担当学芸員によるレポート

 早いもので、「オチ・オサム展」も閉幕まで10日を切ってしまいました。(~24日まで。まだご覧になっていない方は、お見逃しなく!)
 今回のブログは、記念講演会のレポートです。2月24日(土)と3月3日(日)に、「オチ・オサム展」の関連イベントとして、2回の記念講演会を開催しました。第1回目の講師には東京都現代美術館学芸員の藤井亜紀氏、第2回目には元フクニチ新聞記者の深野治氏をお招きしました。藤井氏には、オチ・オサムの作品《出口ナシ》が発表された1962年の「読売アンデパンダン展」を中心に作品の分析をしていただき、深野氏にはオチと初めて会った1962年を起点とした福岡のアートシーンについてお話いただきました。全2回のイベントは奇しくも1962年が起点となり、オチ・オサムの生きた時代を見渡すような内容となりました。関係者の皆様をはじめ、ご参加いただいた方に、お礼申し上げます。貴重な講演内容の記録として、担当学芸員によるレポートをお届けします。

 

1.「オチ・オサムの作品《出口ナシ》をめぐって」(講師:藤井亜紀氏、開催日:2024年2月24日、会場:ミュージアムホール)

 東京都現代美術館学芸員の藤井亜紀氏には、同館が所蔵し、「オチ・オサム展」で展示している作品《出口ナシ》(1962/2015)について読み解いていただきました。《出口ナシ》は、黒い塗料で覆われた木の箱の中にガラス窓があり、中に鏡張りの空間とワイングラスが置かれているオブジェです。1962年に「第14回読売アンデパンダン展」に出品された作品ですが、オリジナル作品は現存しておらず、2015年、78歳の時にオチ・オサムと妻の順子氏により再制作されました。

講演の様子

 オチ・オサムの九州派時代のオブジェはほぼ現存していない状況下で、再制作バージョンの《出口ナシ》は、オチが当時どのような活動をしていたのか検討する貴重な手がかりです。しかし、この作品は、一見してただの黒い箱。展示室に置かれた佇まいは、謎めいています。展示室内のキャプションでは、これを「棺を思わせる」と説明し、当時の「美術界の閉塞感を示唆する」作品であると紹介しました。しかしながら、講演会ではより詳細に、様々な要素を腑分けしていくことで、作品から読み取れることを深く理解する機会を頂きました。

出口ナシ会場風景(撮影:牧野正文)、会場内で掲出しているキャプション

 

 藤井氏は、1962年に制作された作品、続いて2015年に再制作された作品を(1)素材、(2)展示された場所、(3)制作の意図、の3つの観点から読み解いていきました。画材ではなくホームセンターで買える素材でできていること、素材から作品の形が導き出されていること、「もう即物的にやっていますね」¹ などの言葉は、オチの作品に向かう姿勢を物語っています。その場で手に入る素材を即物的に用い、作品めいたものを「ひょいっと出してみせる行為」を、藤井氏は「芸術へと向かう新たな態度」と評しました。
 また、藤井氏は、《出口ナシ》以前に発表した作品について触れながら、異物の挿入、暗色の作品と白い付帯物(展示台など)との鮮やかな対比、重力から逃れる要素など、オチ作品を特徴づけるいくつかの要素を挙げていきました。とりわけ、1960年のオチ・オサムの初個展に展示された《出張大将》にまつわるエピソードは、今回の講演の中で、オチ作品を語る重要な手がかりであると感じました。

 

《出張大将》「洞窟派展」(1960年)またはサトウ画廊個展(1960年)での展示風景

 

 《出張大将》は、買い物籠をつぶしたものに黒い塗料を塗り、壁からぶら下げた作品です。会場であったサトウ画廊を訪れた瀧口修造は、これを見て「作者は唯ひとつの窓を塞いでしまったので、会場は形而上的な箱になろうとしている。(…)この会場がこんな風に見えたことはなかった」と表現しました ²。つまり、展示空間じたいを作品にしてしまったのです。会場で出会った瀧口は、「密室だ」と語り、オチはこの場でカフカの『変身』について語ったそうですが、藤井氏は、画廊の空間と《出張大将》は、『変身』において密室の中のザムザ氏がはい回る様子になぞらえられるかもしれない、とおしゃっていました。これを踏まえて《出口ナシ》を見ると、木箱の中に穿たれた空間はガラスの蓋でぴったりと覆われており、その中は、まさに出口のない密室です。箱や重力、密室という要素は《出張大将》は《出口ナシ》を予感させるといえるでしょう。
 講演の中で、藤井氏は《出口ナシ》の「読売アンデパンダン展」の中での位置づけにも言及されました。「読売アンデパンダン展」は、読売新聞社の主催による展覧会で、東京都美術館で開催され、誰でも申し込めば出品することができる、無審査の展覧会です。既成の美術に反旗を翻す「反芸術」の動向を示すスキャンダラスな作品が多数発表されたことで知られています。講演の中で、藤井氏は展示風景の記録写真や、参加作家の発言を例に挙げ、「読売アンデパンダン展」の傾向から比較するとオチの作品は「ちょっとクールっていうか、硬い感じもありますね」とおっしゃっていました。他の作家は廃品を積み重ねるなど、自分の作品をアピールする意識が強く出る中で、オチ作品は「でこぼこのぼこ」「プラスじゃなくて、マイナス」「外に出すのではなく隠す」「内に向かう」という方向が強いと言います。たしかに。筆者が初めて《出口ナシ》を見た、東京都現代美術館でのコレクション展「コレクションを巻き戻す2nd」(2022年)においても、《出口ナシ》のたたずまいはしん、としていて、菊畑茂久馬《奴隷系図》や田部光子作品とは少し温度が異なるように感じられました。

 

《出口ナシ》は会場の入り口に展示され、菊畑、田部作品は展示室内の中にあったのですが、この性格の違いが配置の選択に影響したのかもしれません。願わくば、1962年の東京都美術館にワープしてみたいところですが、オチ作品のミニマルな姿は、読売アンデパンダン展でひしめき合う作品群との対比によって、強い存在感を発揮したのではないでしょうか。
 続いてのセクションでは、「現代美術の実験展」(東京国立近代美術館)の出品料3000円のあまりの安さに閉口した、というオチの証言を検証する要素として、九州派の会費(10000円)、19歳の時にオチが勤務していた印刷会社の給料(4500円)といった金額を参照しました。アーティストとして活動するには心もとない、この出品料の安さは日本の美術に対する評価の低さそのものであり、作家はどれほどのやりきれなさを抱えたのか、とその気分をより追体験することができました。
 続いて、2015年版の《出口ナシ》について、再制作に携わった越智順子氏への取材も踏まえて紹介いただきました。黒い木箱の部分は表面が平滑なのですが、これは釘頭がとれる作りになっている「カクシ釘」が用いられているためであり、これによって釘頭が錆びるおそれがなくなります。また本作の床との設置部分には「ゲタ」がはかせてあり、直接置いたときに少し浮き、黒い塗料で床を汚さないようになっています。こうした仕様は、美術館で長く展示することを想定したものであり、そこに作家の意識と配慮がうかがえます。
 制作の意図について、本人が見たかったこと、九州派時代への郷愁、美術評論家・中原佑介の勧めなど、複合的な動機によって作られていることを指摘したうえで、藤井氏は、2015年、再制作版が出来上がった時の作家には、1962年に作った時とは異なる感慨があったのではないか、と述べられました。単にオリジナルのコピーとみなすのではなく、1962年から2015年にいたる53年の歳月が、作品に作用するということです。オリジナルが現存しない以上、その差異を詳しく検討することはできません。そうした限界の中で、このような現存する作品の細部と成りたちを確認し、また2015年当時の作品であるということを確認することは、作品、作家を深く理解する重要な作業であるとあらためて気づかされました。
 最後のセクション「《出口ナシ》を見る」では、作品を(1)箱、(2)鏡、(3)展示、(4)時間、(5)空間という5つの観点から解釈しました。最後の「空間」のセクションでは、藤井氏は、オチ作品にみられる「空間」について、九州派の同志・桜井孝身に「どんな絵が描きたいか?」と聞かれた時の答えを引用しました。

  「そうネェ、僕は高い絵を描きたいのです」「高い例えば鯉のぼりがあるでしょう。そうすると柵の所からズーット首を上げて天辺まで見るでしょう。その首を動かすと言うそんな絵を描いてみたい」
(桜井孝身「九州派の起源オチオサムについて」『DISCOVER JESUS CURISTY IS A WOMAN』櫂歌書房、1988年)

 オチ・オサムの作品に内在する、鑑賞者に働きかけ、今いる場所とは別の空間に意識を向けさせるという性質は、1970年代以降の、無限に広がるかのような空間を描き出す球体絵画のシリーズにも通じるのではないでしょうか。
 質疑応答では古くから作家を知る関係者の方々も多く発言いただき、オチ・オサムのオブジェとは、《出口ナシ》とはなんなのか、活発な議論が行われました。オチ作品は、謎が多いところが面白い、ということも改めて再確認できた場でした。

¹「オチ・オサムオーラルヒストリー」、2009年、インタビュアー:山口洋三https://oralarthistory.org/archives/interviews/ochi_osamu_01/

² サトウ画廊月報、1960年8月1日

 

2.「宇宙(そら)へ昇った画家を語る」
(講師:深野治氏、開催日:2024年3月3日、会場:ミュージアムホール)

 深野治氏は、1962年に『夕刊フクニチ』(のちの『フクニチ新聞』)の社員となり、その後長く文化部記者として勤められ、福岡の文化や芸術にまつわる現場を見て来られました。今回、公開インタビューの形で、当時の思い出をお話し頂きました。
 オチ・オサムを深野氏が知る最初のきっかけは1962年の米倉徳との二人展でした。展示の取材を行った際のオチの第一印象は「はにかみ屋だった」とのことです。
 深野氏は、1960年から継続して多数の画廊や百貨店を取材し、文化に関する記事を残されています。当時の活動範囲をお聞きすると、「アートスペース・獏」「とわーる」「村岡屋」などの画廊、岩田屋や玉屋、大丸といった百貨店の画廊名を挙げられました。取材しながら、作家とは時にお酒を囲みながら長い時間を共に過ごしました。社交の場として思い出深いのは、喫茶店「風月」や、寺田健一郎氏のアトリエであったとか。この頃の深野氏は、農民会館で行われた九州派の会合に同席し、その様子をリポートするなど、九州派の現場を熱心に取材するようになっていました。アマチュアも多い若手前衛美術グループを取上げる方針を批判されることもあったといいますが、同時代を生きる若手作家との付き合いは、中身の濃い記事に結実したことでしょう。
 福岡市美術館・福岡県立美術館がまだなかった時代、表現の場がいたるところにある福岡の街は、作家と親交を結び、議論する場所であり、展示企画のアイデアを思いつく場所であったといいます。お話を伺っていると、1960年代前半の福岡では新聞記者の方々が元祖・学芸員の役割を担っていたのではないか、と感じました。
 インタビューでは、オチ・オサムとの印象深いエピソードについてもお話しいただきました。深野氏が挙げたのは、1970年に行われた「英雄たちの大祭典」です。これは市内にあったブティック・BOBO(ビオビオ)のオーナーが主体となった文化イベントで、博多パラダイス(現・博多ポートタワー)を舞台に、ゼロ次元のメンバーによる映画撮影を始め、ファッションショー、詩の朗読、絵のスライド、ゴーゴー・ダンスなどが行われました。そして、ジャンル横断的に様々な催しが行われる中、オチ・オサムと奥様の順子氏の結婚式も行われています。博多パラダイスをフクニチ新聞が管理していた縁あって、深野氏はこの場に「演出」の名目で携わっていたといいます。当時のポスター(「オチ・オサム展」の会場にはこの時のポスターを展示しています)や記録を見ると、アングラな雰囲気をまとったファッショナブルなイベントであったことが伝わってきます。30代前半のオチ・深野両氏にとって、「大祭典」の記憶は忘れられないものだったでしょう。

深野氏の印象に残っているオチ・オサムの個展「心象風景」(1985年)のDMを見ながら

 1960年代から80年代にかけて、深野氏は、記者を勤めながらも「九州・現代美術の動向展」(1967年)をはじめとする多くの展覧会の企画・運営に関わられています。九州派だけでなく、様々なグループのメンバー同士が連帯し、グループ展の場で各々の作品を発表していました。この状況は、オチ・オサムが1975年に「アーティスト・ユニオン九州支部」を務めていた際、理想として掲げたビジョンにも通じるように感じます。

  「理想は、美術家の生活を保障し、自前で画廊を持って、自前で企画をしたい。その道は遠い。だから、まず美術家たちが連帯し、自治体や美術家に働きかけ、美術のあり方を探りたい、と思う。」
(オチ・オサムの発言、「人・仕事 自主企画で美術展 文化をつくる母体めざす」[誌名不明] 1976年)。

 それはどのような背景があったのか?とお伺いすると、この頃、どの団体に所属しているかなどにこだわらず、作家たちと新聞記者たちが和気あいあいと親交していた、それゆえに、様々な企画が生まれたということをお答えいただきました。

 

深野治企画によるグループ展「グループ連合による芸術の可能性展」目録(1968年)

 確かに、会場には、「英雄たちの大祭典」に携わられた方々、作家の方々をはじめ、当時を知るたくさんの方がいらっしゃいました。深野氏を訪ねて多くの方々が見えられていることに、人と人とのつながりが文化をはぐくむ大切な要素であることを、改めて感じました。貴重な証言から、福岡の表現の現場をこれからも盛り上げていくために必要なエッセンスを教えていただいた時間となりました。

(近現代美術係 忠あゆみ)

館長ブログ

「インタビュー with KYNE」

展覧会キービジュアル

4月20日からはじまる「ADAPTATION – KYNE」展の準備が佳境です!本日(3月5日)、ポスター、チラシができあがりました。チラシはもう館内に置いていますので、ぜひ、お手に取ってくださいね。会場造作もデザインの段階から制作へと本格始動です。

展覧会のキービジュアルを制作してくださったのは、チロン&チビン・トリュー兄弟。兄のチロンさんは、ローザンヌ美術学校の講師。弟のチビンさんは大阪在住で、おふたりでタイポグラフィの事務所を運営されています。文字のエキスパートのお二人が作ってくださった、ロゴはガッチリ強くてすごいインパクト。ほれぼれします。このビジュアルと街で遭遇する日が楽しみです。展覧会の特設サイトも3月半ばにはオープンします。お楽しみに!

と、いろいろ佳境なのですが、今日は図録について少し。

KYNEさんと展覧会の打ち合わせを始めたのは、もう思い出せないぐらい前のことですが、図録の準備に本格的に取り掛かったのは、半年前の昨年9月。その皮切りが、KYNEさんへのインタビューでした。展覧会全般の打ち合わせは美術館でしていましたが、インタビューは資料があるKYNEさんのスタジオで。相棒のY係長と午後にお邪魔して、だいたい18時頃までノンストップでお話うかがったのですが、毎回あっという間でした。

インタビューさせていただいて最も心に残ったことのひとつが、「KYNEさんは福岡の作家」だ、ということです。クールで都会的な作風の内に、福岡の匂いや景色があります。わたしたちにもなじみ深い、国道3号(普段、3号線と呼んでいるあれです)と並走する福岡高速を中心にした地域で、子供時代から積んできたさまざまな体験が、今のKYNEさんに結実しているのです。

インタビューを重ね、3号線界隈を歩き、参考文献を読んで、年表を作って、寝ても覚めてもKYNEさんをどう描くかで頭の中がいっぱい。という状態を経て、今なんとか形になりつつあります。まだ図録ができたわけではありませんが、出品作品の写真や会場風景とともに、インタビューの成果も無事みなさまに届けられますように。

ちなみに、図録のデザインも、チロン&チビン・トリュー兄弟が手掛けてくださいます。楽しみすぎる!

(館長 岩永悦子)

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