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福岡市美術館ブログ

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教育普及

いろいろな作品鑑賞の仕方を考える機会になりました ―今年度のバリアフリーギャラリーツアー

今回のブログでは、昨年の11月末から12月に行ったバリアフリーギャラリーツアーにて作品を鑑賞した時のことを少しご紹介したいと思います。

昨年12月に開催した「聴覚障がい者のための 目で聴くツアー」より

福岡市美術館では、毎日定時に開催しているギャラリーツアーや、夏休みのこども美術館、秋のファミリーDAYなど、年間を通して来館者へ向けた様々なプログラムを企画していますが、そのうちのひとつにバリアフリーギャラリーツアーがあります。これは、様々な方が集まり、利用する施設である美術館が、すべての人にとって安心して過ごせる場所となっていくことを目指して行うもので、現在は年に一度のペースで視覚、聴覚に障がいがある方、車いすを利用する方を主な対象に、3つのギャラリーツアーを開催しています。2023年度までは、基本的に8~9月のシーズンに行ってきたツアーですが、今年度は9月に新規収蔵作品、モナ・ハトゥムの《+と-》(1994/2024年、 ステンレス鋼、モーター、砂)の設置のため、展示室に工事が入った影響で、初めて初冬の時期に開催となりました。

今年度に開催した「視覚障がい者のための おしゃべりとてざわりのツアー」より

11月末に開催した「視覚障がい者のための おしゃべりとてざわりのツアー」より

モナ氏の作品は、床に設置された直径約4mの円形の凹みの中に砂が敷き詰められており、その上に設置されたステンレスのバーが一定の速度で回転することで、砂に模様を描いては消していく、という動きが反復し続けるものです。ステンレスのバーの半分にはギザギザの凹凸がついていて、それが砂をなぞることで規則正しい櫛目状の模様ができて、平らだった表面に繊細な陰影が生まれますが、やがて凹凸のないバーの半分がやってきて通り過ぎるので、模様はかき消され、フラットな砂の面が再び作られます。作品は展示室の床に埋め込みで設置された立体作品であるということと同時に、こうして動き続けるということも作品テーマに関わる大切な要素となっています。

 「おしゃべりとてざわりのツアー」では、絵画など触れることができない作品では、見える人が大きさや色、かたちや描かれた内容などの情報を言葉で表現して、見えない人はそこから浮かんだイメージや疑問を投げ返しながら作品を鑑賞していきます。また、彫刻など触れられる作品をとりあげる場合は、事前に安全確保や触れる準備をして、触覚を通じて鑑賞します。普段、視覚に頼ることに慣れている人にとっては、触る鑑賞は物としてのかたちだけではなく、温度や質感、大きさを自分の身体感覚で直接感じるなど、目で見るのとは違った作品鑑賞の仕方に気がつくきっかけとなり、また視覚以外の感覚を研ぎ澄ませている人にとっては、触れて鑑賞する面白さを存分に楽しむ機会となります。今回のモナ作品では、作品に使われている砂と同じものを容器に取り分けそれに「触れる」こともしましたが、それだけでは伝わらない、作品が動くことで生まれる変化を感じるため、かすかな砂の音やバーが動く気配が伝わってくるかを、参加者が耳を澄ませて作品に集中するという時間も、鑑賞の中に意識して取り入れてみました。

そして、「おしゃべりとてざわりのツアー」の翌日には、「目で聴くツアー」にて同じモナ作品を、聴覚障がいのある当事者の方とも鑑賞しましたが、この時は作品全体を見て情報を受取ることができるので、見えるものについてから話は始まったものの、やはり作品の動きや砂の変化について話題が展開したところで、音についても話す場面がでたことは印象的でした。

目で聴くツアーでは、当事者の方から発せられた、砂が動いて生まれるのはどんな音ですか?という質問に対して、手話通訳をされていた通訳者の方も自身の感想を伝えてくれたのですが、海辺の音のようです、と表現されていました。その言葉で、参加者の中にどのような作品イメージが膨らんだのかはわかりません。ただ、新しい作品が設置されたことで今回は、見たり触れるたりするだけではだけでなく、気配を感じる、音をきく(イメージする)ということも作品鑑賞のひとつの要素になるのでは?、ということを試してみることが出来ました。今回のツアーで、作品鑑賞の仕方にもまだまだ色々なアプローチがあり得るはずと、考えを広げる機会にもなったといえます。

バリアフリーギャラリーツアーでは、それぞれがそれぞれの感覚を使って作品を鑑賞し、時間を共有することを試みます。各ツアーではモナ作品以外にも、参加者の気になる作品があり希望が出た時には立ち止まってそれについて鑑賞するなど、通常のギャラリーツアーよりは全体の時間を長目にとって開催しています。2020年から始まったプログラムですが、これからも参加する方にとってのより良いかたちを考えながら試みて行ければと思います。

ところで、昨年末くらいまでは、今年は比較的暖冬なのかな?と思っていたのに、年が明けたあと、ここしばらくは急に寒い日が続いています。北海道や北、西日本ではとくに寒波の影響が大きい地域もあり大変ですが、福岡市美術館の周辺でも雪がちらつく日が何日もありました。冬の曇り空が続くと、温暖な気候の福岡も、やはり日本海側の地域なのだというのを実感します。冬の一番寒い時期に美術館まで出かけていくのはしんどいし面倒くさいなと、億劫に思われる方も多いかもしれません。ただ、そんな季節でも1月末からの旧正月や、特別展「トムとジェリー展」が始まったこともあり、福岡市美術館は国内外のたくさんの方にいらしていただいており、とても賑わっています。館内は年間を通して温湿度管理により一定に保たれていますので、来てしまえば快適に過ごしていただけますので安心ください!と、最後になり天気の話題など少しチカラ技で強引に挟んだのは、実は今週末、2月15日(土)にもバリアフリーギャラリーツアーの3つ目のプログラムとして、「車いす利用者のための ゆったり車いす鑑賞ツアー」を開催する予定で準備中なのです。

https://www.fukuoka-art-museum.jp/event/154093/

(応募は2月12日にて締め切っていますが、もし参加してみたい、という方がいましたら直前となりますが上記をご覧いただきご連絡ください。)

ですので、これ以上寒波は続かないでほしいと切に願いながら現在、このブログを書いています。夏は台風に悩まされ、冬は雪をおそれつつですが、これからも福岡市美術館にアクセスしてくださる方へ向けて、作品や展示を楽しんでもらえるプログラムを行っていきたいと思います。

 

(教育普及係長 髙田瑠美)

コレクション展 近現代美術

奈良原一高展、第3弾開催中!―「ヴェネツィアの夜」と「ジャパネスク」―

当館2階近現代美術室Bにて、ただいま「奈良原一高『ヴェネツィアの夜』『ジャパネスク』」を開催しています。本展は、福岡県大牟田市生まれの写真家・奈良原一高(1931-2020)の仕事を、シリーズごとに紹介する第3弾の展示となります。
 福岡市美術館は2021年度に作家のご遺族より6つのシリーズ作品から211点をご寄贈いただき、以降、シリーズごとに作品を紹介してきました。2022年には奈良原のデビュー作である「人間の土地」と同時期に撮影された「無国籍地」を、2023年には「王国」をご紹介しました。
 第3弾となる今回は、「ヴェネツィアの夜」(1985年)と「ジャパネスク」(1970年)より、50点の作品を展示しています。両シリーズは撮影の対象、コンセプト、発表の時期も異なりますが、奈良原が1962年から3年間、ヨーロッパに滞在したことが制作のきっかけとなったという点で共通しています。

 さて、奈良原が写真家として歩み始めたのは、大学院在学中に開催した初の個展「人間の土地」(1956年)からでした。桜島の噴火によって埋没した村と長崎沖の人工島・端島を舞台に、外界と隔絶された土地でなお逞しく生きる人々を新鮮な表現で写し出した作品は、大きな反響を呼びます。
 続いて「王国」(1958年)を発表。ここでは前作の二部構成を引き継ぎつつ、北海道の聖トラピスト男子修道院と和歌山の女子刑務所という閉鎖環境における人間心理を真摯に追及し、日本写真批評家協会新人賞を受賞しました。(当館での「王国」展に関するブログはこちらhttps://www.fukuoka-art-museum.jp/blog/99976/

 これらの作品によって新進気鋭の写真家として評価を確立し、多忙な日々を送っていた奈良原は、モード雑誌の撮影依頼を機に活動の場をヨーロッパに移し、パリを中心に3年間滞在します(1962~65年)。
 初めてヴェネツィアを訪れたのは1964年。夜、ヴェネツィアへ向かう船のヘッドライトに照らされ、水上に林立する街並みが暗闇から次々と現れたときの衝撃を、奈良原は忘れられないといいます*。たちまちこの神秘的な都市に魅了され、ようやく再訪が叶った1973年以降、ヴェネツィアを頻繁に訪れるようになります。この時期は奈良原の母や親しい友人などを多く失った時期と重なるそうですが、ひとつの死を迎えるたび、輝く闇を湛えたヴェネツィアに一層魅せられていったと語っています*。
 このような背景を鑑みると、奈良原のほかのシリーズに比べ、人の姿がほとんど写されていないことが本シリーズの特異点として浮かび上がってきます。本シリーズでは、奈良原が衝撃を受けたという、船から眺めた夜のヴェネツィアの街並みや街灯、網の目のように張り巡らされた運河を通る小舟の光跡などによって人間の存在は示されますが、意図的に(長時間露光によって)人の姿を除いた都市景観が撮影されています。ほかにも、奈良原もさまよったかもしれない迷路のような細い路地や、サンマルコ広場もとらえられていますが、やはり人の姿はほとんどありません。そのため本シリーズは、観るものを、人気のない暗闇のなかで「迷い」や「喪失」について、あるいは「死」について思索するよう誘う作品であるように思います。
 ただ、奈良原がヴェネツィアの夜に「光輝く闇」や「華麗なる闇」を見出すように、また、シリーズの終盤で祝祭の花火が上がるように、未来への希望や明るい余韻を残すシリーズ作品でもあるでしょう。

 「ヴェネツィアの夜」に先立ち、1970年に刊行された写真集『ジャパネスク』もまた、3年間のヨーロッパ滞在が制作の契機となりました。初めての海外生活でさまざまな国の人々と交流するなかで、「人間」としての孤独や連帯感を得るのと同時に、「祖国」であるがゆえに奈良原にとって「あまりにも身近で遥かな国という感」がして、「容易に接近できないもの」であった「日本」への意識を強めたといいます**。
 1965年に帰国したのち、日本の伝統文化を再考するシリーズに着手。時として幼少期の記憶をたどりつつ、自身が日本らしさを見出したテーマについて日本各地で取材します。その成果は《封(サムライ)》を皮切りに、雑誌『カメラ毎日』に断続的に掲載されました(1966~69年)。これらを抜粋、総集編としてまとめたものが写真集『ジャパネスク』で、順に「富士」「刀」「能」「禅」「色」「角力」「連(阿波踊り)」「封」の8つの章で構成されています。
(そのうち当館では、「刀」「能」「禅」「色」「角力」を所蔵。)
 本シリーズでは、広角レンズや望遠レンズを使用したアングルの強調や、長時間の露光によるブレの効果、陰影を強調した表現など、テクニックを駆使した多彩な表現方法が見られます。視覚的にインパクトのある作品が本シリーズの特徴となっています。

 奈良原一高による「ヴェネツィアの夜」と「ジャパネスク」、ぜひご覧ください。

「奈良原一高『ヴェネツィアの夜』『ジャパネスク』」展示風景(2024年12月18日~2025年3月23日)

展示初日の開館直前、それぞれの持ち場に向かう前に展示作品をのぞき込む監視スタッフの方々

 奈良原展のほか、近現代美術展示室Aでは今の時期にぴったりの「雪景色」展も開催中です。こちらの展示室では、雪景色を描いた明治時代以降の日本画と木版画が紹介されています。
 例えば、美人画の名手といわれる伊東深水の版画作品。そのうち《現代美人集 炬燵》という作品は、顔料のせいでしょうか、見る角度によって表面がキラキラと輝いています。ぜひ会場でじっくりご覧ください。

「雪景色」展示風景(2024年12月10日~2025年3月23日)

伊東深水《春雪》と《現代美人集》より3点

展覧会の会期はどちらも3月23日(日)まで。ご来場をお待ちしております。

学芸課臨時的任用職員(近現代美術係)髙山環

【出展】
 *奈良原一高「ヴェネツィアの秘密」『ヴェネツィアの夜』岩波書店、1985年
 **奈良原一高「『近くて遥かな国』への旅」『カメラ毎日』1968年3月、42-43頁

総館長ブログ

ヘビも美術と仲が良い?

どーも。総館長の中山です。あけましておめでとうございます。
最近、新年一発目のブログはお前が書けという風潮?が定着してきて、戦々恐々なんです。書きたい人が書きたいときに書くのがベストなんですけどね。去年のお正月は、大牟田市動物園さんとのコラボ企画「教えて!美術館の人! -辰って一体どんな動物?-」というライブ配信もあったので、その予告編も兼ねて「辰は美術と仲が良い」というタイトルで書きました。そこで「あれ、ちょっと待てよ。そういえば…」と、どんどん遡ってみると、2020年のお正月からずーっと書いてました。なんだ、戦々恐々もなにも、もうとっくに定着してますやん。トホホ。うれしがりみたいに私的年賀状の図案も載せてますやん。御多分に漏れず、わたしも昨年「年賀状やめます」宣言を年賀状に書きました。かの博多の名物禅僧である仙厓さんは、「なんか描いてくれ、なんか描いてくれ」とあまりに多くの人が来たので「うらめしや わが隠れ家は雪隠(せっちん・トイレのこと)か 来る人ごとに紙置いていく」と嘆息し、83歳で絶筆を宣言して絶筆の石碑まで建てましたが、「仙厓さんが絶筆したと?そらあかん。今のうちになんか描いといてもらわんと」という聞き分けのない博多っ子が普段にもまして押し寄せ、断ることもできずに「絶筆の碑図」を何枚も描いて与えています。笑い話です。当然ながら88歳で死ぬまで絶筆できませんでした。わたしは年賀状、やめますけどね。
さて、今年は巳年ですが、ヘビで思い出すのは小学校一年生の夏休みです。淡路島の叔父の家の牛小屋の板塀の隙間から、大きな大きな青大将が、ぬうっと首をまっすぐ水平に出していたんです。どこまでが首なのか知りませんけど。記憶映像では50センチくらいだったです。ながいながい首で狭い道が通せんぼされているんです。気づいたら、もう目の前だったんです。怖かったなあ。ヘビはまばたきしないんです。そもそもまぶたがないんです。真横なのに、じーっとこっちを見ているように思われて、ヘビに睨まれたカエルみたいにうごけませんでした。ほんとは慌てて後ずさりしてから固まって、そのまま彼が立ち去るまでわたし、じーっと待っていました。彼女かもしれませんけど。永遠の時間が過ぎて、彼または彼女が田んぼに消えてから全速力で駆け抜けました。家の裏の海岸にどうしてひとりで遊びに行ったのかはもう思い出せませんが、この青大将がわたしのヘビ初体験でした。ヘビに対する恐怖は本能なのか学習なのか、論争があるみたいです。わたしの場合は、学習していたのかもしれませんが、あれは本能的な恐怖でしたね。多分。叔父に怖かったことを話したら、夜中に天井からネズミを丸のみにした青大将が、寝ている布団の上にドサッと落ちてきた、なんて話を笑いながらしたんです。もう寝られなくなりますよね。いじわるな叔父さんでした。大人になってからは、それほど怖くなくなりました。思っていたより怖くないということを、学習したようです。
ついでにもうひとつ告白しますが、文化英雄という言葉をご存じですか。わたしはつい最近まで知りませんでした。何かの拍子に耳に入ってきて、そんな言葉があるのかと手元の広辞苑(1991年発行・第4版)で引くとちゃんとありました。文化施設に人生の七分の四以上も勤めているくせに文化という項目をきちんと読んでいなかったわけですし、そうでなくても恥ずかしいかぎりです。広辞苑の解説はちょっとお堅いので、ネットのウィキペディアを引用すると、文化英雄とは、〈火や作物の栽培法などの有意義な発明や発見をもたらし、人間世界の文化に寄与したとされる伝説的人物やある種の動物〉のことらしいです。人間に火や穀物をもたらしたギリシア神話のプロメテウスは有名ですね。わたしがこの言葉と意味を知ってまず思い浮かべたのは、エデンの園でアダムとイブに禁断の果実を食べさせて知恵を授けたヘビでした。知恵をさずけたのだから、ヘビも文化英雄になるのかな、なんて漠然と思ったのです。あのエデンの園にいたヘビ、実は堕天使で悪魔のルシファーらしいです。いいですね、ルシファー。ロマン・ポランスキー監督、ジョニー・デップ主演の映画「ナインスゲート」とか、アトラスのRPGゲーム「女神転生」シリーズとか、姿を現しても現わさなくても、仲魔になってもならなくても、わたし大好物なんです。ルシファー。これは余計な話でした。それにしても、知恵を獲得することが罪を背負うことになるというのは、やっかいな問題です。
さて、ヘビに恐怖を感じたり、悪魔の化身だったりするマイナスイメージは、万国共通ではないし、あたりまえでもないですよね。ヘビをペットにして可愛がっている人はたくさんいますし、去年の年末に福岡県大川市の三宝神社で白ヘビの赤ちゃんが一度に十匹も生まれてラッキーというニュースをテレビでやってました。ローカルニュースですけど。日本の神話ではヤマタノオロチという大蛇が悪いヘビみたいですが、近世美術でヘビが描かれていると、大抵はよい意味、縁起物です。

仙厓「大弁財尊天像」(三宅コレクション)と「蛇動物文様緯絣」

左は当館所蔵の仙厓作品で、右はちょっとわかりにくいですが、19世紀のカンボジアの布(絣・かすり)で、菱形が並んでいるように見えているのがヘビの文様です。仙厓さん作品は、七福神の弁財天の姿を描くのが面倒くさいので、ちょっとだけコブラっぽい蛇で代用したというものだと勝手に解釈しています。カンボジアの儀式用の布にはヘビの文様がよくあるようで、多分神聖な存在として扱われているのだろうと、これも勝手に解釈しています。だってそもそもインド神話にはナーガとかナーガラジャという蛇神がいますから。また、弁天さまは財宝の神様ですが、そもそもはヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教に取り込まれた呼び名です。ヘビは脱皮して無限の生命力を持ち、お金を呼び寄せるので財布にヘビの脱皮した抜け殻を入れておくとお金が溜まるという迷信がありましたね。そういうことです。夜に口笛を吹くとヘビが来るという悪い迷信もありました。でもこっちの迷信は大丈夫。ヘビって鼓膜や耳孔が退化してしまっているので音はほとんど聞こえないみたいです。下あごで地面の振動を感知しているそうです。
最後に、世間のごく一部の人から仙厓の専門家だと勘違いされているみたいなので、先ほどの「大弁財尊天像」についてひとつだけつけ加えておきましょう。この作品、何歳で描いたか画面には書いていませんが、専門家であるらしいわたしにはわかります。これ、天保三年(1833)仙厓83歳の正月に描いたものです。この画面に押されている四角いハンコが使われたのは80歳代前半の数年(ほぼ82歳か83歳)に集中しています。で、天保三年は巳年なんです。正月早々から「なんか描いてくれ、なんか描いてくれ」とうるさい人に向かって描いてあげたに違いありません。つまりこれ、仙厓さんのいやいやながらの年賀状かもしれません。いやいやかどうかはわからないだろうと思われました?多分いやいやですよ。なにせこの年に、例の絶筆の石碑を建てているんですから。そしてそうです。このブログ、わたしの年賀状です。ただしこれは、いやいやではありません。
今年も福岡市美術館をどうぞよろしくお願い申し上げます。

(総館長 中山喜一朗)

 

 

 

 

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