2022年1月30日 15:01
ゴッホ展会期も残すところ1か月足らずです。本当にたくさんの方々にお越しいただいており、ゴッホの力を確かに感じています。
毎日思っているのは、無事に会期を走り抜けたい、ということです。多くのお客様でにぎわって嬉しいです。美術館に足を運んで下さるお客様の様子を見ていると、なんだかこちらもつられてうきうきしてきます。しかし、安全に開催することは何よりも優先。状況をよく見極めながら「密」にならないように慎重に運営しています。
展覧会の準備にあたっては、コロナ禍であることがやはり大きなハードルでした。今回のゴッホ展では、クレラー=ミュラー美術館、ゴッホ美術館、オランダの二つの美術館から作品をお借りしています。展示にあたっては、作品の輸送と展示に付き添う専門家(クーリエ)の立会いが必須でしたが、海外からの渡航にあたっては、さまざまな制約がありました。隔離・PCR検査を経て、なんとか来日が叶ったことによりクーリエ立ち会いのもと展示することができ、ほっと胸をなでおろしました…。すべての作品が展示し終わったときには、自然とその場にいる全員が笑顔になりました。
展覧会が開幕してからの共通する目標は、足を運んでくださる皆さまに、快適に楽しんでもらうことです。少しでも展覧会を快適に見てほしいな…と、毎日会場に溜まる埃を払うのが、担当学芸の最近のルーティンワークです。
もう一つ、毎日思っていることがあります。それは、なぜ、多くの人がゴッホに魅せられるのか、ということです。歴史を辿れば、日本での最初のゴッホ・ブームは100年前にさかのぼります。1910年に創刊した雑誌『白樺』にたびたび特集されたゴッホは、複製図版、伝記や手紙を通して親しまれていました。人生を賭して創作に打ち込み、ときに狂気を帯びながらも作品を作る…という芸術家のイメージが、100年前に定着しているからこそ、私たちは無意識にゴッホを身近な存在だと考えてしまうのかもしれません。なんだか放っておけない親戚のおじさんのような。
しかしながら、それだけが人気の理由とは思えません。その理由は、ぜひ展示室で確かめていただきたいのですが、1月15日に講演会をされた作家の原田マハさんの言葉に、ヒントがあるかも知れません。原田さんは、「トランスクリエーション」をキーワードに、ゴッホについてお話しして下さいました。「トランスクリエーション」とは、ある創作物が別の誰かを刺激して、次の創作へとつながっていくこと。ゴッホの場合は、その時々に出会った未知の文化(例えば浮世絵)に触発されながら、自分だけの画風を模索して、様々なタイプの作品を残しています。
もしかすると、ゴッホの魅力は、「トランスクリエーション」へと見る人を揺さぶるところなのではないでしょうか?ゴッホはこれまでに、多くの人々を触発し、20世紀以降の芸術家たちのインスピレーション源になりました。ゴッホの作品は、それ自体がトランスクリエーションの軌跡であり、トライ&エラーの痕跡が見え隠れします。時に拙く見える筆跡に、見ている私達は背中を押され、目が離せないのかもしれません。
大濠公園に出ると、芸術的な配置の藻が並んでいました。
(学芸員 忠あゆみ)
2022年1月20日 15:01
企画展「田部光子展『希望を捨てるわけにはいかない』」、1月5日に無事オープンしました。
展覧会のポスター・チラシが完成したとき、この美術館ブログに展覧会への意気込みや田部光子さんとのやり取りを書きました(「田部光子展のポスター」2021年10月28日)。
「任せた、好きにやっていいよ」と言われたものの、これまで十分に紹介されてこなかった作品や活動について調べる作業は、時に途方に暮れるものでもありました。展覧会出品歴も膨大で調査するたび増えていき、オーガナイザーとしての仕事、スペースの運営、エッセイの執筆等々、一人の仕事とは思えない幅広さと量に、どう整理したものかと頭を抱えたことも。加えてもちろん生活者として、つまり主婦、母としての仕事や画塾運営時には先生としての仕事もあった。田部さんは人と協働して事を起こすことが好きな人なので、家族や友人、周囲の協力もあるわけですが、それにしてもどうやれば両立できるのか今も不思議で仕方がありません。
本展覧会の準備期間はまさにコロナ禍。資料調査も思うように進まず、人に会うのも難しい状況でしたが、ぎりぎりまで粘って展覧会と図録ができました(図録はオンラインショップでも販売中です)。とはいえ現時点でわかっていないこと、もっと深く掘り下げなければと思うことも当然ながらあります。私も図録に比較的長い論考を書きましたが、それでも田部さんのすべてに言及できたとは考えていません、まったく。だからというわけではないですが、この展覧会が美術家・田部光子を広く知ってもらうだけでなく、田部光子研究がさらに展開するきっかけになればと願います(もちろん私もこれからも田部さんを追いかけます!)。田部光子をさらに知る糸口になればと、図録には田部さんが過去発表された文章もいくつか再録し、文献リストや年表には私が調べたものはほぼ全て載せています。今後新たな事実が付け加わったり、誤りは修正されていくでしょう。どの展覧会にも言える当たり前のことではありますが、あえて言わせてください。展覧会が開催されて終わり、ではなく、ここからまた始まるのだ、と。
田部さんは著書の中で、自身の作品が「百年早いのかもしれない」と述べておられます。その後に「ということは生きてる間もその後も夢を持てるということになる」と続くのがいかにも田部さんらしいと思います(「たった一人の旅鴉」『二千年の林檎 私の脱芸術論』西日本新聞社、2001年に収録)。
田部さんがこのように書いた後、2004年の熊本市現代美術館の依頼による代表作《人工胎盤》の再制作や、2005年に栃木県立美術館で開催された「前衛の女性1950-1975」への参加をきっかけに、〈九州派〉の一員としてではなく一人の美術家として、田部光子の活動に光が当たることになります。
しかしながら田部さんが2000年に「百年早いのかもしれない」と書いたのには理由があったはずです。確かに、田部さんの作品と活動を振り返ると、常に時代の先端を進んでいる(時には時代を随分と先取りしている)感があります。女性の社会における不平等からの解放を訴える《人工胎盤》(1961年)も、改革を訴えるはずのプラカード自体が旧態依然のままだと気づき、権力に対抗する名もなき人々への共感とともに作りあげた《プラカード》(1961年)も、1960年代末に「記録映画家」として反芸術パフォーマーたちの姿を映像に収めていたことも、1970年頃表現と猥褻の問題に画家として果敢に挑戦していたことも、既存の団体や公募展のオルタナティブとしてだけでなく女性たちの居場所にもなりうるグループとして構想し立ち上げた〈九州女流画家展〉(1974~1984年)も、女性の手による新たな女性表象と言える1970~80年代の絵画群も、1988年の「主婦定年退職宣言」も、あるいは1995年から福岡市美術連盟理事長として行なってきた活動も、1990年代そして2000年代以降の作品も、2015年に開設したオルタナティブスペースとも呼べる「TMT・ART・PROJECT 3丁目芸術学校」も。
2022年の今、展覧会開幕から約2週間が経って実感するのは、たくさんの人が田部光子の作品や活動に関心を持ち、アクチュアルなものとして受けとめているということです。展覧会への反応を見聞きする限りではありますが、田部さんの作品と活動に刺激を受けている人が既にたくさんいます。「百年」より早く、「その後」よりずっと前に、私たちはあなたに追いつくことができるかもしれません!田部さん!
最後に。初期から最近作までの田部光子作品の造形力や表現力も、本展覧会で知っていただきたいことです。開幕日の前日、美術専門の作業員の方々と一緒に展示作業をしていた私は、「展示がうまくいくだろうか」という極度の緊張と不安の中にいました。しかし作品が会場に並びはじめると、田部さんの作品の圧倒的な力に痺れ、興奮し、気づいたときには不安は払拭され、「何を心配していたんだろう、こんな素晴らしい作品が並ぶのだからいい展示にならないわけがない」と思うようになっていました。この感覚をみなさまと共有できるかもしれないことにもわくわくします。ぜひ会場で、田部光子作品の力、美術の力を目撃そして体感してください!
田部光子展「希望を捨てるわけにはいかない」展示風景
(学芸員 近現代美術担当 正路佐知子)
2022年1月14日 18:01
シンガポール・スタイル1850-1950 まもなく開催です!ブログ終わり!
…といいたいほどに、切羽詰まっています。これから、出品作品をひっぱりだして、マネキンに着せ始めなければやばい。間に合うか。というわけで、落ち着いたらちゃんと書きますので、今日はこの辺で、失礼します。オープン後にお会いしましょう!
(館長 岩永悦子)