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福岡市美術館ブログ

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教育普及

〜いきヨウヨウ講座の時間〜

皆さん、最近誰かに手紙やメッセージカードを送ったことはありますか?年賀状も誕生日のお祝いもメールやSNSでやりとりすることが増えました。気持ちをすぐに、率直に伝えるには良いツールなのかもしれません。でもたまには時間をかけて手作りしたカードに、メッセージを添えて贈ってみるのはどうでしょう。気分もちょっと改まって、いつもとは違う言葉をかけたくなるかもしれません。

先日、3月5日、6日に当館のシニア向けの講座「いきヨウヨウ講座」を開催しました。今回のテーマは「想いを届けるメッセージ〜銅版画でカード作り」。遠くにいる友人、身近な家族、誰かに想いを届けるためのカードを銅版画で手作りしてみようという企画です。
銅版画の指導には、九州産業大学などで講師の経験がある、版画家の加藤恵さんをお招きしました。当館の「どこでも美術館」の版画ボックスを制作する時にも協力していただいた方です。そして加藤さんのアシスタントに、版画を専門に活動されている吉武英里香さん、於保彩花さんも来てくださいました。

今回皆さんに体験してもらったのは銅版画の技法の中でも直接法と言われるドライポイントとメゾチント。ニードルやルーレット(*)を使って、直接銅板を彫って版を作る方法です。ちなみに今回は取り上げませんでしたが、間接法と言って、エッチングなど腐蝕液で版を作る技法もあります。

2日間行なった今回の講座は、「想い」や「メッセージ」がテーマ。1日目は美術館の所蔵品から銅版画の作品を数点鑑賞し、作品に込められた作家の想いやその表現にかかわる技法について紹介しました。続いて1日目の後半から2日目にかけて、銅版画のカード制作を行いました。

この「いきヨウヨウ講座」でいつも感じるのは、参加者の皆さんの積極的で、熱心な様子に圧倒されてしまうこと。今回も、最初の作品鑑賞の時から、加藤さんやアシスタントのお二人にいろいろと質問が投げかけられます。その後の技法の説明でも熱心にメモを取られたりして、皆さん興味が尽きない様子でした。

続く作品の制作でも皆さんの熱心な様子は変わりません。
1日目の後半に自分が作る作品の図案を考えて、銅板に転写するところまでを行なったのですが、翌日準備をしていると、始まる時間よりもずっと早く来た方が何人かいました。図案を手直しして転写をやり直したり、加藤さんにアドバイスを仰いで図案に手を加えたり、納得のいく作品を作ろうという意気込みが伝わってきます。そうしてできあがった皆さんの図案を見ると、それぞれ個性があって、素敵な作品になりそう!とこちらの期待も高まります。どんな作品に仕上がったか、あとで紹介したいと思いますので、お楽しみに。

2日目の制作にあたっては、加藤さんが、彫り方の説明からインクの詰め方、そして最後のプレス機を使って刷る工程までを、手元をプロジェクションしたり、ときには、参加者の目の前で実演してくださったり。そこでも皆さん食い入るように真剣な眼差しでひとつひとつの工程をじっくり観察されていました。その甲斐あってか、説明が終わるとすぐにニードルを手に取り、下書きに沿って線を彫り進めていきます。

実はこの講座を企画する時に、シニア向けなので、7cm四方の小さい銅板にニードルで細かい絵を描くのは時間がかかったり、難しかったりするもしれないなと少し心配をしていました。でもそんな心配はどこへやら、皆さんものすごい集中力でどんどん版ができていきます。
加藤さんのアドバイスに従って、最初は軽く力を入れずに絵の輪郭をなぞります。輪郭ができれば後は自由。線に強弱をつけたり、点描やたくさんの線を描き込んで陰影をつけたり。ルーレットを使ってメゾチントのように黒い部分を生かした表現を試している方もいました。こうした工夫でいろんなニュアンスを出せるところが銅版画の面白いところです。皆さんの版が次第に深みを増していきます。

版ができたら、いよいよ印刷です。自分が彫った版にうまくインクが入ってきれいに仕上がるかどうか、ローラーを握る手にも自然と力が入ります。

余分なインクを拭き取って、プレス機に紙をセッティング。プレス機のハンドルは、途中で止めずに一息に回さなければいけません。ハンドルを握るとさすがに皆さんちょっと緊張気味。見守るこちらも自然とかけ声をかけてしまいます。「まわして、まわして、とまらずに!」そして緊張の一瞬。そっとカバーをはずしておそるおそる紙をめくると、「おお!」という歓声が。そこには皆さんが気持ちを込めてひとつひとつ描いた線が、美しい作品となってしっかりと現れていました。

こうした制作の途中でも、お互いの作品を見せ合って感心したり、モチーフについて質問したり。真剣になりつつも、皆さん和気あいあいと楽しい時間を過ごしている様子が微笑ましくもありました。

では、ここでどんな作品ができたか、少しご紹介します。
こちらは、絵と文字で平和へのメッセージ。文字を逆に彫るのには苦労されていました。

こちらは花の作品。つぼみだそうです。好きな花への愛おしい気持ちが出ています。

言葉をモチーフにした作品もありました。なんて読むかわかりますか?ご自身の座右の銘なのかもしれません。

こちらのぶどうの作品は、陰影がとてもよく出ていました。雰囲気があります。

全部は紹介しきれませんが、どの作品も皆さんの気持ちが込もった、素敵な仕上がりになっていました。作品は、ハガキタイプのものと、見開きのカードと2種類作ってもらいました。1枚はメッセージを添えて大切な人へ送るために、もう1枚は、銅版のプレートと一緒に記念に持っておいていただくために。今回作っていただいたカードを介して、大切な人との良いコミュニケーションがとれる機会ができるといいなと思います。

「いきヨウヨウ講座」の目的のひとつに、美術活動を通して、シニア世代の心の充実をはかるということがあります。なのに今回もそうでしたが、毎回参加者の皆さんの、目の前にあることを楽しもう!という姿を目にすると、結局いつも私たちのほうが元気をもらっているんだなと感心させられてしまうのです。

(教育普及専門員 中原千代子)

*ニードル=先端に尖った針状の金属がついた道具。線を引いたり、点描を打つ時に使う。

*ルーレット=先端に金属の歯車がついた道具。銅板に押し付けながら転がして細かい線や点の集合をつける。

 

教育普及

「やさしい日本語」勉強中!

 最近、テレビを見ていて地震があったとき、津波などの危険を知らせるために、「津波(つなみ) すぐ逃(に)げて」など、フリガナをつけた短く簡潔な日本語で表示されることがありますよね。この、外国人にもわかるように簡便にした「やさしい日本語」ですが、新聞やニュース関連のホームページ記事だけでなく、街なかでも見られるようになってきました。「やさしい日本語」が考え出されたきっかけは、1995年の阪神淡路大震災だったそうで、英語も日本語も十分に理解できなかったために、適切な情報が得られず、被災したり困難な状況に陥ったりした外国ルーツの人たちがたくさんいたそうで、そういう人たちをなくすために始まったそうです。
 実は、今、災害時だけでなく、展示や利用の理解のために、美術館・博物館の中でもこの「やさしい日本語」を活用しようという動きがでてきています。
 そして、先日、「やさしい日本語」の学芸員向け研修が、九州産業大学の主催で、当館にて開催されました。というわけで、筆者をはじめ、当館の教育普及係のスタッフも参加させていただきました。
 研修の前半は東京都生活文化局都民生活部の村田陽次さんと、多摩六都科学館の髙尾戸美さんによるレクチャーでした。村田さんからは、日本の在住外国人数の推移を見ながら、なぜ「やさしい日本語」が必要か、「やさしい日本語」を書く際の注意点、そして東京都をはじめ全国でのさまざまな取り組みについてお話がありました。なかでも「やさしい日本語」が、外国人に対してだけでなく、障がい者にとっても機能する話は目からうろこでした。そして、髙尾さんからは多摩六都科学館での多文化共生プロジェクトの実践が語られました。髙尾さんのお話はミュージアムの現場ならではの、良い意味で「生々しい」エピソードもあり、多文化共生の必要性と困難さ、そして楽しさが感じられました。特に、「やさしい日本語」のプラネタリウムプログラムのエピソードは印象に残りました。プラネタリウムは日頃から人気のプログラムだそうですが、「やさしい日本語」プログラムは、特別な内容であることから、在住外国人の方々だけを対象に時間外に行ったそう。ところが、直接の参加者ではないものの、ある外国ルーツの方から「なぜ私たち外国人を別に扱うのか!」との意見が寄せられたそうです。このエピソードには、配慮したつもりが相手を傷つけてしまう可能性について、筆者自身もやってしまうかも・・・ハッとさせられました。と同時に、それだけ日本社会の中で孤立して傷ついている外国ルーツの人たちがいること、それに無自覚だった自分にも、ややショックを受けました。そして、そういう難しさがありながらも、「やさしい日本語」を手段に、継続して相手とコミュニケーションをとり、社会と関わっていこうとする多摩六都科学館の事例の数々に、当館もやるからには覚悟がいるな、と思いました。
 さて、後半はいよいよ「やさしい日本語」の実践です。内容は、当館の作品の解説文を「やさしい日本語」に書き直す、というもの。5グループにわかれ、各グループにあらかじめ選んだ作品1点が割り当てられました。まずは実物をしっかり鑑賞、そしてその後、現在各作品についている解説文をもとに「やさしい日本語」解説文を書きました。

下の写真は、筆者のグループが書いた《薬師如来立像》の「やさしい日本語」の解説です。苦労しました・・・。

 美術館でよく使われる、慣れた言い回しなどが邪魔をしてなかなかやさしくならなかったり、また元の文章をどこまで解釈してやさしくするか悩んだりなど、正直、「やさしい日本語」は易しくありませんでした!
 とはいえ、現在、福岡市の人口の2.3%ほどが外国人で、そのほとんどが、英語を母語としないアジアの国々からの人々です。今後もますます外国ルーツの人たちの人口は増えると予想されているので、公共施設として美術館でも「やさしい日本語」が必要になってくるはず。まずは実践あるのみ!と決意を新たにもした研修でした。

主任学芸主事(教育普及) 鬼本佳代子

館長ブログ

エイコさんのバティック

SINGAPORE STYLEの図録が届きました。わざわざ有難うございました。新春にふさわしい華やかな展覧会ですね。エイコさんのバティックの素晴らしい事!!極上のサロンとのコーディネイトは楽しくて、気合いが入る事でしょう。素晴らしい組み合わせです。このような時で行けませんで残念です…

大学の大先輩であり、染織コレクターでもあるNさんから、お葉書をいただきました。展覧会を誉めていただいたことはさておき、「エイコさん」という言葉に、胸がいっぱいになりました。バティックのコレクターとして、世界的に著名なエイコ・アドナン・クスマ氏が、2011年に天国に帰られて丸10年。アジア染織のファンには、憧れの存在でした。

今回の展覧会は、リー御夫妻とクスマ氏のコレクション展でもあり、本当は展示にも図録にも、コレクターの人となりをもっと反映したかったのですが、そこにまで行きつけませんでした。今回のブログは、エイコ・アドナン・クスマ氏―ここでは、かつてお呼びしていたように「クスマさん」と、記したいと思います―に捧げたいと思います。

エイコ・アドナン・クスマさん(旧姓 麻生英子さん)は、1923(大正12)年生まれ。神戸女学院で英語を学び、横浜正金銀行に就職。戦後はGHQの郵便検閲の仕事をされていました。そこで、インドネシアの南方特別留学生として京都大学で学んだアドナン・クスマさんと出会います。二人は日本で結婚し、アドナンさんの祖国へ。子育てが一段落したタイミングで、陶磁器の収集を始めたクスマさんは、古美術商が陶磁器を包んで持ってくる風呂敷代わりの布に眼が行くようになります。「奥さん、布が好きか?」古美術商は、陶磁器でなく布を持ち込むようになりました。それが、クスマさんのバティックコレクションの始まりでした。

コレクションを続けて10年ほどたった頃のことです。クスマさんはインドネシアの文化を外に伝えるため、日本でバティックの展覧会を開催することを思い立ち、単身日本に里帰りします。クスマさんの是非にとの願いにこたえたのが、サントリー美術館でした。クスマさんのコレクションは、1987年に同館で「ジャワ更紗展」として展示され、翌年は神戸市立博物館でも開催されました。

福岡市美術館が、クスマさんのコレクションの紹介をはじめたのは、1996年。クスマさんはすでに世界的なバティック・コレクターとして有名な方でした。お付き合いとしては後発かもしれませんが、当館ではクスマさんのコレクション展を合計3回開催させていただいたので、日本で最も関わりが深い美術館といえるでしょう。そのうち2回は筆者が担当でしたので、クスマさんとお会いする機会をたくさん得ることができたことは、とてもありがたいことでした。

クスマさんといえば、ショートカットの銀髪がトレードマークでした。筆者がはじめてお会いした時には、もう70歳代半ばでいらしたのですが、すらりと背が高く、堂々とした物腰で、現代では耳にすることがないような、きれいな日本語で話しかけて下さり、感銘を受けました。まさに、貴婦人という言葉がふさわしいのですが、お化粧に凝るわけでなく、贅沢な服を身にまとうわけでなく、ただただその凛としたたたずまいが美しい方でした。

猫が好きで、猫が高価な布にじゃれてもちっとも気にしなかったクスマさん。自らギャラリーを持ち、土地の職人を指導して、漆器や焼物、ジュエリーを作らせたりされていました。ジャカルタにも日本にも、バティックが好き、クスマさんが作らせる美しい工芸品が好き、なによりクスマさんに憧れる…という女性ファンがたくさんおられました。もちろん、筆者もその一人でした。

とはいえ、クスマさん御自身は、なんの苦労も悩みもなく、優雅に生きてこられたわけではありません。一家の大黒柱は、公務員としてお金儲けとは厳しく一線を画してきた夫のアドナンさんではなく、クスマさんでした。異国の社会に飛び込んだことで、クスマさんの中で何かが目覚めたのでしょう。日本人ならではの才覚で、さまざまな仕事を手がけ、土地の売買などで財をなし、その富をコレクションに注がれました。

クスマさんのお宅で、作品調査をさせていただく間には、実業家としての「タフ・ネゴシエイター」ぶりを垣間見ることもありました。一方で、コレクション熱というものは、たいがい家族には理解されないもので、クスマさんにもそれが悩みの種であることや、インドネシアの社会に完全には同化せず、我が道を行きながらも、すっかり土地になじんでいる日本人の友人をうらやましく思う、というようなことを、問わず語りにお話してくださることがありました。

異国で生きることの孤独。そのなかで自分を貫く覚悟。自分を取り繕ったりしない潔さ。インドネシアの染織への愛着。独得のエレガンス。すべてが魅力的な方でした。

そんなクスマさんが選ぶバティックの基準は?クスマさんは、美的であることと状態の良さの両方を兼ね備えたものでなければ、コレクションに加えることはありませんでした。特にバティックの収集には、どこかで「自分が着るとしたら」というような目線があったように感じます。クスマさんのバティックは、21世紀の今でも「身にまとってみたい」という気持ちを掻き立てる魅力を放っています。その視線で篩に掛けられたコレクションであったからこそ、今回のような「ファッションとしてのバティック」の展覧会に、抜群の力を発揮したのだと思います。

クスマさんが愛してやまなかったバティックを、ぜひ、見にいらしてください。

(館長 岩永悦子)

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