2020年7月22日 09:07
明日は海の日ですね。
海の日だから何がある、というわけでもないですが、ちょっと海に散歩に行きたくなってきます。海のない県で育ってきた身としては、少し歩けば海にたどり着くことって、かなり異常事態なのです。福岡市美術館のある大濠公園から草ヶ江の方までぶらぶらしていると、磯の香りがしてきて、えも言われぬうきうきを覚えます。百道浜へ向かうバスに乗った日には、きらめく水面やさびれたコンテナ(と読解不能な文字)が海の果てへと想像力を刺激します。
福岡市美術館の中で貝殻を発見!
今から80年ほど前に活動していた前衛美術グループ、ソシエテ・イルフにとっても、海は重要なモチーフでした。ソシエテ・イルフは、1930年代に福岡市を拠点に前衛写真や絵画を制作していた7人組です。実は、来年1月に開催する企画展「ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画」に向けて、彼らの作品と資料についての情報を集めているところなのですが(ご存じの方がいらしたら、ぜひ情報をお寄せください!)、彼らの作品には頻繁に海が登場するのです。
久野久《海のショーウインドウ》1938年
例えばこの作品《海のショーウインドウ》は、彼らが海辺での創作を楽しんでいたことがよくわかる作品です。
アクリル板のようなものを組み合わせ、海岸に絶妙なバランスで作り上げられた構造物。板と板の隙間にできた四角形・三角形のなかには海で拾ったと思われる様々なものが配置されていて、砂からカニの手がぬっと伸びていたり、海藻のようなものがびろーんと垂れ下がったりしています。「ショーウインドウ」のマネキンのように、貝殻や海藻は三角形・四角形の中でポーズをとり、そのポーズが整然とした空間に動きや物語を生みだします。余白が多くすっきりとした印象の写真ですが、8枚の板を崩れないように組み合わせ、貝殻や、カニのはさみを集めてそっと乗せる作者の姿を想像すると、なかなかチャーミングです。
作者の久野久(1903-1946)は結核療養のために12歳で宗像郡津屋崎に転居し、生涯津屋崎を拠点にしていました。療養のため身動きを制限された久野にとって、撮影場所は必然的に身近な場所が多くなり、海岸をたびたび写しました。1939年にはソシエテ・イルフのメンバーを津屋崎に招いています。
やがて貝殻に魅せられ、貝の幾何学的な形態をクローズアップした作品を集中的に撮り始めます。この時代は愛好家向けのカメラ雑誌に、被写体を効果的に写し取るための技術がさかんに紹介されていました。久野にとって、レンズを通して貝殻の造形を精密に記録することは写真家としての使命となっていきます。
久野久《貝殻その5》1941年
浜で拾つた小さい貝の、レンズによつて拡大された像、それは肉眼で見る貝とは丸で違つた感覚を持つた貝となつて、私の前に現れたのであつた。之れは私にとつて大変な発見であつた。小さい生命を宿す此の貝にも、造形の神は想像を絶した美を与へ給ふた。正に想像を許さないその美しさではある。私は此の美しさを究めなければならぬと思つた。写真する私の、世の人々への解答を此の貝によつてこそと考へたのであつた。
(久野久「貝の話」『寫眞文化』1941年8月、アルス)
ソシエテ・イルフのメンバーにとって海がどのような場所だったのかについては、いくつもの読み取り方ができます。まっさらな砂浜と水平線は、「ここではないどこか」の象徴、とも解釈できます。しかしその一方で、福岡を拠点にしていた彼らにとって、海は自分たちの生活と地続きの場所でもあり、何よりも、創作意欲をそそられるモチーフとの出会いの場だったのかもしれません。
(学芸員 近現代美術担当 忠あゆみ)
2020年7月16日 16:07
今日、福岡市はひさびさに晴れ!というわけで、ひさびさに、昼休みを美術館のカフェで過ごしました。お目当ては、これです。夏になると、いろんなところに、ソフトクリームの大きな立体の看板?が出てきますよね。普通は「ああー」と思いつつ、通り過ぎるわけですが、職場で毎日遭遇するとなると、誘惑に抗しきれない…。
ソフトクリームにもいろんなフレーバーがありますが、美術館のカフェのおすすめは、「木酢(きず)」。木酢は、福岡や佐賀で栽培されている柑橘類で、酢みかんとも呼ばれるそうです。しっかり酸っぱいけど、くせがない。個人的には、木酢とミルクのミックスにして、爽やかな酸味とミルクの濃厚な味を同時に堪能しております。
おかげさまで、美術館にもゆるやかにお客様が戻ってきてくださっています。本当にゆっくり見ていただけますので、とっても居心地がよいと思います。日常的に、まだまだ密をさけて行動しなければなりませんが、街の中心にほど近く、天井高が4mも5mもある、広々とした美術館の空間は、今こそお役に立てると思っています。自慢のコレクションと、夏休みの子供向け企画(~8月30日まで)で、お待ちしております。よければ、ソフトクリームも。
(館長 岩永悦子)
2020年7月8日 09:07
確か1995年のことだったと思います。アメリカから高名なキュレーター(学芸員)が来館するので、対応をせよ、という上司からのお達し。ウィリアム・S・リーバーマンという方で、世界有数の大美術館であるメトロポリタン美術館の20世紀部門のチーフキュレーターを務めていらっしゃる方です。同じく世界的な美術館であるニューヨーク近代美術館(MoMA)のキュレーターも歴任されたそうで、上品なふるまいの、長身の紳士でした。日本人の通訳他を従えてのご来館です。
大美術館の幹部級の方がいらっしゃる、となれば、当館としてもしかるべき対応をしなければなりません。ところが、これは今考えても不思議でしようがないのですが、なぜか新人同様の自分にその対応を任されました。自分が忘れているだけで、実は当時の館長や副館長に表敬したあとに、自分が案内を任されたのかもしれません。ただもしそうだったとしても、現代美術専門の上司、先輩学芸員は他にもいたので、なお不思議です(出張で不在だったのかもしれません)。
まあとにかく、分不相応の自分が、リーバーマン氏を案内して、常設展示室をめぐることになりました。彼はその時点で70歳前後。足があまりよくないと伺いましたが、展示室内では杖や車いすを使わず、ゆっくりと歩いていました。解説は不要、と言われちょっとほっと?しましたが、彼の見方は流し見。20世紀美術の専門家だから知っている作家ばかりで特に珍しくないのかも?日本の近代美術には興味ないのかも?そう思いながら、彼の後をついていきました。
展示も終盤に差し掛かる頃、彼はある作品の前でピタリと立ち止まり、私に初めて質問しました。「これは菊畑の作品ですか?」。立ち止まった作品とは菊畑さんが1983年に制作した《天動説 五》でした。250×194cmの大作絵画です。そうですよ、と私が答えると、彼は続いて「彼は元気ですか?」、「彼によろしくお伝えください」と話しました。国内外の近現代美術作品をほとんど流し見していたリーバーマン氏が、菊畑さんの作品にのみ言及したことが意外で、私はこのやりとりは今も鮮明に記憶しています。とはいっても、その頃は自分も浅はかで、「菊畑さんは意外と国外でも知られているのだな」程度の認識しか持たず、この記憶も時間の中に埋もれていきました。
この記憶がよみがえるのは、菊畑さんの回顧展の準備中のことでした。2009年12月、菊畑さんへの長時間インタビューの中で、リーバーマン氏の名前が彼の口から出てきたのです。1964年頃、リーバーマン氏は、MoMAほか全米7会場を巡回した「日本の新しい絵画と彫刻展」(1965-67年開催)準備の一環で来日し、日本国内をくまなく回り、作家を調査していたのです。福岡市郊外の菊畑さんのアトリエにもやってきて半日を過ごしたそうです。結果、菊畑さんは出品することになり、図録によれば、《ルーレット》3点が出品されています。ベテランから若手まで、欧米在住者から国内居住者まで、日本人作家46人がこの展覧会に出品していますが、1935年生まれの菊畑さんは当時30歳。若手作家の代表格としての国際デビューとなった記念すべき展覧会です。
菊畑さんとのやりとりの中で、私は、1995年の出会いのことを思い出し始めました。リーバーマン氏があのとき《天動説 五》の前で立ち止まり「菊畑さんによろしく伝えてください」と言ったことの意味を、私はようやく理解しました。そして、これまでの菊畑さんの個展、そして戦後前衛美術史においてこれまであまり注目されてこなかった「日本の新しい絵画と彫刻展」を、詳しく調べてみようと思いました。そして実際調べてみたら、「菊畑さんによろしく」の意味を、なおさら深く理解することになったのです。(つづく)
菊畑茂久馬《天動説 五》(右から2点目のグレーの作品)の展示風景。2001年撮影。
■ブログ「菊畑茂久馬さんを偲んで(1)」
https://www.fukuoka-art-museum.jp/blog/11324/
(学芸係長 近現代美術担当 山口洋三 )