2024年6月5日 09:06
福岡市美術館が主催している福岡アートアワード。昨年度、第2回福岡アートアワードではソー・ソウエンさん、イ・ヒョンジョンさん、山本 聖子さんが受賞されました。
5月19日(日)、当館は第2回福岡アートアワードの受賞作家であるソー・ソウエンさん、イ・ヒョンジョンさん、山本 聖子さんの3名をお招きし、トークセッションを開催しました。
ちなみに、この日は福岡ミュージアムウィーク2024の期間中で、沢山の来場者でにぎわうなかでの開催となりました。
当館の後藤学芸課長より挨拶とふりかえりを行った後に、受賞作家らによる発表を開始。
はじめは市長賞を受賞したソー・ソウエンさんです。
ソー・ソウエンさんは、自身のアイデンティティや他者との関係性など生に関わる事象について、身体を通じて表現する作家です。発表では、各国のID写真を基に制作した絵画《tie》シリーズや、漂白された絵画《Bleaching》シリーズ、香りを使ったインスタレーション等が紹介されました。中でも、卵が割れないよう挟み込み動くパフォーマンス《The Egg》は、紹介動画の上映中に息をのむ音が会場から聞こえる程、緊張感が伝わるものでした。
次に発表したのは優秀賞受賞のイ・ヒョンジョンさんです。
彼女はキムチの熟成過程を作家自身の人生になぞらえたり、あるいは心臓や性器などを連想させる形象として捉えた自画像とも言える代表的な絵画シリーズや、個人史を扱った複合的なインスタレーション、パフォーマンスなど幅広い表現を発表しています。
トーク中、ご自身は制作する際「傷と癒し」「自己克服」「生命力」の3つを作品の主題としていると述べ、発表された作品は生々しさを感じさせつつも一貫してご自身を主体とした力強いものでした。
最後に発表したのは、同じく優秀賞受賞の山本聖子さんです。
山本さんは、ご自身が育った均質的なニュータウンの様相に対する違和感や、それがもたらす身体への影響の焦燥感を起点に制作活動に取り組んでいます。今回のトークでは、自身のメキシコ滞在中、国全体が持つ不穏な気配を色として捉えた作品、それと併せて鉄と身体を関連付け制作した作品を紹介されました。
休憩を挟んだのちはクロストーク形式のトークセッションです。
当館の山田学芸員が進行を務め、互いの作品の印象や、今回の3名の受賞作に「身体」「生命」「人生」「傷」等が共通していると指摘した上で、その意識や意図について聞きました。
作家の皆さんは、それぞれの作品の共通性を認めつつも、トークが進むなかで互いの作風や制作の姿勢に違いがより浮かび上がった、という感想を述べられていました。
また、パフォーマンスやインスタレーションを行う際の意識を問われた際は、ソー・ソウエンさんはパフォーマンスの本来持つメッセージ性の力強さを均していく意識、イ・ヒョンジョンさんは、個人と全体との関係性、山本さんは周囲の協力を得て出来上がった作品に対する責任や覚悟等について述べられました。
2時間という限られた時間であったにも関わらず、3名の話は非常に分かりやすく、意義深いものでした。受賞者の皆様をはじめとして関わっていただいたすべての方々に感謝申し上げます。
(近現代美術係 渡抜由季)
2024年4月24日 09:04
福岡アジア美術館から4月1日に異動して、当館近現代美術係に着任いたしました。実は、福岡市美術館は美術館人として歩みだした最初の勤務地。変わったところもあれば、変わらないところもあり、新たな気持ちと懐かしさの両方を抱いて仕事をしています。
さて、3月28日(木)に開会した「第2回福岡アートアワードの受賞記念展」にあわせて、当日朝に授賞式をおこないました。受賞者3人のスピーチは、作家として真摯に社会と自分自身に向き合う姿勢、制作を支えた方への感謝、受賞の喜びに満ちていました。
今回のブログでは、感動的だった受賞者のスピーチを皆様にお届けします。
***
授賞式での記念撮影(左から、ソー・ソウエン氏、高島市長、イ・ヒョンジョン氏、山本聖子氏)
ソー・ソウエン氏【市長賞】
《お臍と呼吸》2022年 映像(3分)
本日はお集まりくださり、ありがとうございます。また、このような賞をいただき、とても光栄に思います。
あらためまして、今回の作品に参加し出演していただいた皆様、そして制作期間、下支えしていただいたアジア美術館の皆様、審査員の皆様、福岡市美術館の皆様、この場を借りてお礼申し上げます。
わたしにとって作品を見ることは、他人の痛み、喜び、不条理に敏感であり続けるためです。わたしにとって制作は、傷ついたり、傷つけたりしても、それでもなお世界の優しい関係を築きつづけるための営みです。
今回の作品は、ひとの出生と深く関わりのあるお臍と呼吸についての作品です。
お臍は、最後まで母親と繋がっていた場所であり、臍帯が断ち切られることで成立します。そして、その傷跡が身体の中心にずっと残り続けるということに興味をもっています。また、臍帯の断絶とともに始まる呼吸は、わたしたちが生きていくうえで、常に世界に開き続けていかねばならないということを象徴していると思います。イタリアの哲学者、エマヌエーレ・コッチャは、呼吸に関して、呼吸は共食いの原初の形態である、というふうに述べました。
現在、世界中で残虐なことがたくさん起こっています。そのことに、わたしたちはどのように感じていけばいいでしょうか。そのことを、わたしたちはどのように受け止めればいいでしょうか。この問いを最後に、わたしの言葉を締めくくらせていただければと思います。ご清聴ありがとうございました。
イ・ヒョンジョン氏【優秀賞】
《キムチ2022-1》 2022年 油彩・画布
皆様、こんにちは。韓国から来ましたイ・ヒョンジョンと申します。この度は、ありがとうございます。
わたしは、韓国の視覚芸術家です。わたしのキムチの作品が、「第2回福岡アートアワード」の優秀賞に選ばれたことは、とても意味のあることで、光栄に思っております。そして、とても特別なことだと感じています。この福岡で、わたしの作品の価値が認められるということは、とても光栄で嬉しいことだと思っています。
福岡市、そして福岡市美術館、アートアワードの選考委員の皆様に感謝するとともに、芸術家としてすごく自負心を感じているところであります。そして、機会があれば、福岡市と交流をしながら、継続してアーティスト活動を続けていきたいと思っております。
そして最後に、わたしのキムチの絵というものが、日本で認められたことをとても嬉しく思っていることを、もう一度申し上げたいと思います。ありがとうございます。
山本聖子氏【優秀賞】
《白色の嘘、滲む赤》2023年 映像(3面同期、20分33秒)
本日は、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。
この度の受賞作品は、リサーチ段階から制作に至るまで、ほんとうに多くの皆様に力をお借りして実現することができました。この場をお借りして、あらためてお礼を申し上げたいと思います。
わたしは、大阪の千里ニュータウンの団地で育ちました。そこは便利で安全な環境ではありましたが、一方では、何かを自分で体験したり思考する機会は減り、自分が無機質になったように感じました。これが自分の創作の原点となっています。
歴史をたどると、発展や成長など、一見明るくポジティブなメッセージの裏側には、多くの搾取や犠牲があります。そういったことは、過去のわたしのように、無機質な人間にはなかなか届きません。理不尽な思いをした人たちの悲しみは、自分には関係がないと通り過ぎ、さらなる搾取構造に加担します。わたしは、過去の自分を含めて、そういった人々に問いかけたいと思っています。
芸術は、人間にとって自己内省のメディアであり、だからこそ生きるために必要なものだと思っています。今後も制作に励みたいと思います。ありがとうございました。
***
福岡で活動するおおくのアーティストの励みになれるよう、今年も「第3回福岡アートアワード」を開催する予定です。公募等の情報は、詳細が決まり次第お知らせいたしますので、多くの方にご応募いただければ幸いに存じます。
(近現代美術係 係長 ラワンチャイクン寿子)
2024年3月15日 08:03
早いもので、「オチ・オサム展」も閉幕まで10日を切ってしまいました。(~24日まで。まだご覧になっていない方は、お見逃しなく!)
今回のブログは、記念講演会のレポートです。2月24日(土)と3月3日(日)に、「オチ・オサム展」の関連イベントとして、2回の記念講演会を開催しました。第1回目の講師には東京都現代美術館学芸員の藤井亜紀氏、第2回目には元フクニチ新聞記者の深野治氏をお招きしました。藤井氏には、オチ・オサムの作品《出口ナシ》が発表された1962年の「読売アンデパンダン展」を中心に作品の分析をしていただき、深野氏にはオチと初めて会った1962年を起点とした福岡のアートシーンについてお話いただきました。全2回のイベントは奇しくも1962年が起点となり、オチ・オサムの生きた時代を見渡すような内容となりました。関係者の皆様をはじめ、ご参加いただいた方に、お礼申し上げます。貴重な講演内容の記録として、担当学芸員によるレポートをお届けします。
1.「オチ・オサムの作品《出口ナシ》をめぐって」(講師:藤井亜紀氏、開催日:2024年2月24日、会場:ミュージアムホール)
東京都現代美術館学芸員の藤井亜紀氏には、同館が所蔵し、「オチ・オサム展」で展示している作品《出口ナシ》(1962/2015)について読み解いていただきました。《出口ナシ》は、黒い塗料で覆われた木の箱の中にガラス窓があり、中に鏡張りの空間とワイングラスが置かれているオブジェです。1962年に「第14回読売アンデパンダン展」に出品された作品ですが、オリジナル作品は現存しておらず、2015年、78歳の時にオチ・オサムと妻の順子氏により再制作されました。
講演の様子
オチ・オサムの九州派時代のオブジェはほぼ現存していない状況下で、再制作バージョンの《出口ナシ》は、オチが当時どのような活動をしていたのか検討する貴重な手がかりです。しかし、この作品は、一見してただの黒い箱。展示室に置かれた佇まいは、謎めいています。展示室内のキャプションでは、これを「棺を思わせる」と説明し、当時の「美術界の閉塞感を示唆する」作品であると紹介しました。しかしながら、講演会ではより詳細に、様々な要素を腑分けしていくことで、作品から読み取れることを深く理解する機会を頂きました。
出口ナシ会場風景(撮影:牧野正文)、会場内で掲出しているキャプション
藤井氏は、1962年に制作された作品、続いて2015年に再制作された作品を(1)素材、(2)展示された場所、(3)制作の意図、の3つの観点から読み解いていきました。画材ではなくホームセンターで買える素材でできていること、素材から作品の形が導き出されていること、「もう即物的にやっていますね」¹ などの言葉は、オチの作品に向かう姿勢を物語っています。その場で手に入る素材を即物的に用い、作品めいたものを「ひょいっと出してみせる行為」を、藤井氏は「芸術へと向かう新たな態度」と評しました。
また、藤井氏は、《出口ナシ》以前に発表した作品について触れながら、異物の挿入、暗色の作品と白い付帯物(展示台など)との鮮やかな対比、重力から逃れる要素など、オチ作品を特徴づけるいくつかの要素を挙げていきました。とりわけ、1960年のオチ・オサムの初個展に展示された《出張大将》にまつわるエピソードは、今回の講演の中で、オチ作品を語る重要な手がかりであると感じました。
《出張大将》「洞窟派展」(1960年)またはサトウ画廊個展(1960年)での展示風景
《出張大将》は、買い物籠をつぶしたものに黒い塗料を塗り、壁からぶら下げた作品です。会場であったサトウ画廊を訪れた瀧口修造は、これを見て「作者は唯ひとつの窓を塞いでしまったので、会場は形而上的な箱になろうとしている。(…)この会場がこんな風に見えたことはなかった」と表現しました ²。つまり、展示空間じたいを作品にしてしまったのです。会場で出会った瀧口は、「密室だ」と語り、オチはこの場でカフカの『変身』について語ったそうですが、藤井氏は、画廊の空間と《出張大将》は、『変身』において密室の中のザムザ氏がはい回る様子になぞらえられるかもしれない、とおしゃっていました。これを踏まえて《出口ナシ》を見ると、木箱の中に穿たれた空間はガラスの蓋でぴったりと覆われており、その中は、まさに出口のない密室です。箱や重力、密室という要素は《出張大将》は《出口ナシ》を予感させるといえるでしょう。
講演の中で、藤井氏は《出口ナシ》の「読売アンデパンダン展」の中での位置づけにも言及されました。「読売アンデパンダン展」は、読売新聞社の主催による展覧会で、東京都美術館で開催され、誰でも申し込めば出品することができる、無審査の展覧会です。既成の美術に反旗を翻す「反芸術」の動向を示すスキャンダラスな作品が多数発表されたことで知られています。講演の中で、藤井氏は展示風景の記録写真や、参加作家の発言を例に挙げ、「読売アンデパンダン展」の傾向から比較するとオチの作品は「ちょっとクールっていうか、硬い感じもありますね」とおっしゃっていました。他の作家は廃品を積み重ねるなど、自分の作品をアピールする意識が強く出る中で、オチ作品は「でこぼこのぼこ」「プラスじゃなくて、マイナス」「外に出すのではなく隠す」「内に向かう」という方向が強いと言います。たしかに。筆者が初めて《出口ナシ》を見た、東京都現代美術館でのコレクション展「コレクションを巻き戻す2nd」(2022年)においても、《出口ナシ》のたたずまいはしん、としていて、菊畑茂久馬《奴隷系図》や田部光子作品とは少し温度が異なるように感じられました。
《出口ナシ》は会場の入り口に展示され、菊畑、田部作品は展示室内の中にあったのですが、この性格の違いが配置の選択に影響したのかもしれません。願わくば、1962年の東京都美術館にワープしてみたいところですが、オチ作品のミニマルな姿は、読売アンデパンダン展でひしめき合う作品群との対比によって、強い存在感を発揮したのではないでしょうか。
続いてのセクションでは、「現代美術の実験展」(東京国立近代美術館)の出品料3000円のあまりの安さに閉口した、というオチの証言を検証する要素として、九州派の会費(10000円)、19歳の時にオチが勤務していた印刷会社の給料(4500円)といった金額を参照しました。アーティストとして活動するには心もとない、この出品料の安さは日本の美術に対する評価の低さそのものであり、作家はどれほどのやりきれなさを抱えたのか、とその気分をより追体験することができました。
続いて、2015年版の《出口ナシ》について、再制作に携わった越智順子氏への取材も踏まえて紹介いただきました。黒い木箱の部分は表面が平滑なのですが、これは釘頭がとれる作りになっている「カクシ釘」が用いられているためであり、これによって釘頭が錆びるおそれがなくなります。また本作の床との設置部分には「ゲタ」がはかせてあり、直接置いたときに少し浮き、黒い塗料で床を汚さないようになっています。こうした仕様は、美術館で長く展示することを想定したものであり、そこに作家の意識と配慮がうかがえます。
制作の意図について、本人が見たかったこと、九州派時代への郷愁、美術評論家・中原佑介の勧めなど、複合的な動機によって作られていることを指摘したうえで、藤井氏は、2015年、再制作版が出来上がった時の作家には、1962年に作った時とは異なる感慨があったのではないか、と述べられました。単にオリジナルのコピーとみなすのではなく、1962年から2015年にいたる53年の歳月が、作品に作用するということです。オリジナルが現存しない以上、その差異を詳しく検討することはできません。そうした限界の中で、このような現存する作品の細部と成りたちを確認し、また2015年当時の作品であるということを確認することは、作品、作家を深く理解する重要な作業であるとあらためて気づかされました。
最後のセクション「《出口ナシ》を見る」では、作品を(1)箱、(2)鏡、(3)展示、(4)時間、(5)空間という5つの観点から解釈しました。最後の「空間」のセクションでは、藤井氏は、オチ作品にみられる「空間」について、九州派の同志・桜井孝身に「どんな絵が描きたいか?」と聞かれた時の答えを引用しました。
「そうネェ、僕は高い絵を描きたいのです」「高い例えば鯉のぼりがあるでしょう。そうすると柵の所からズーット首を上げて天辺まで見るでしょう。その首を動かすと言うそんな絵を描いてみたい」
(桜井孝身「九州派の起源オチオサムについて」『DISCOVER JESUS CURISTY IS A WOMAN』櫂歌書房、1988年)
オチ・オサムの作品に内在する、鑑賞者に働きかけ、今いる場所とは別の空間に意識を向けさせるという性質は、1970年代以降の、無限に広がるかのような空間を描き出す球体絵画のシリーズにも通じるのではないでしょうか。
質疑応答では古くから作家を知る関係者の方々も多く発言いただき、オチ・オサムのオブジェとは、《出口ナシ》とはなんなのか、活発な議論が行われました。オチ作品は、謎が多いところが面白い、ということも改めて再確認できた場でした。
¹「オチ・オサムオーラルヒストリー」、2009年、インタビュアー:山口洋三https://oralarthistory.org/archives/interviews/ochi_osamu_01/
² サトウ画廊月報、1960年8月1日
2.「宇宙(そら)へ昇った画家を語る」
(講師:深野治氏、開催日:2024年3月3日、会場:ミュージアムホール)
深野治氏は、1962年に『夕刊フクニチ』(のちの『フクニチ新聞』)の社員となり、その後長く文化部記者として勤められ、福岡の文化や芸術にまつわる現場を見て来られました。今回、公開インタビューの形で、当時の思い出をお話し頂きました。
オチ・オサムを深野氏が知る最初のきっかけは1962年の米倉徳との二人展でした。展示の取材を行った際のオチの第一印象は「はにかみ屋だった」とのことです。
深野氏は、1960年から継続して多数の画廊や百貨店を取材し、文化に関する記事を残されています。当時の活動範囲をお聞きすると、「アートスペース・獏」「とわーる」「村岡屋」などの画廊、岩田屋や玉屋、大丸といった百貨店の画廊名を挙げられました。取材しながら、作家とは時にお酒を囲みながら長い時間を共に過ごしました。社交の場として思い出深いのは、喫茶店「風月」や、寺田健一郎氏のアトリエであったとか。この頃の深野氏は、農民会館で行われた九州派の会合に同席し、その様子をリポートするなど、九州派の現場を熱心に取材するようになっていました。アマチュアも多い若手前衛美術グループを取上げる方針を批判されることもあったといいますが、同時代を生きる若手作家との付き合いは、中身の濃い記事に結実したことでしょう。
福岡市美術館・福岡県立美術館がまだなかった時代、表現の場がいたるところにある福岡の街は、作家と親交を結び、議論する場所であり、展示企画のアイデアを思いつく場所であったといいます。お話を伺っていると、1960年代前半の福岡では新聞記者の方々が元祖・学芸員の役割を担っていたのではないか、と感じました。
インタビューでは、オチ・オサムとの印象深いエピソードについてもお話しいただきました。深野氏が挙げたのは、1970年に行われた「英雄たちの大祭典」です。これは市内にあったブティック・BOBO(ビオビオ)のオーナーが主体となった文化イベントで、博多パラダイス(現・博多ポートタワー)を舞台に、ゼロ次元のメンバーによる映画撮影を始め、ファッションショー、詩の朗読、絵のスライド、ゴーゴー・ダンスなどが行われました。そして、ジャンル横断的に様々な催しが行われる中、オチ・オサムと奥様の順子氏の結婚式も行われています。博多パラダイスをフクニチ新聞が管理していた縁あって、深野氏はこの場に「演出」の名目で携わっていたといいます。当時のポスター(「オチ・オサム展」の会場にはこの時のポスターを展示しています)や記録を見ると、アングラな雰囲気をまとったファッショナブルなイベントであったことが伝わってきます。30代前半のオチ・深野両氏にとって、「大祭典」の記憶は忘れられないものだったでしょう。
深野氏の印象に残っているオチ・オサムの個展「心象風景」(1985年)のDMを見ながら
1960年代から80年代にかけて、深野氏は、記者を勤めながらも「九州・現代美術の動向展」(1967年)をはじめとする多くの展覧会の企画・運営に関わられています。九州派だけでなく、様々なグループのメンバー同士が連帯し、グループ展の場で各々の作品を発表していました。この状況は、オチ・オサムが1975年に「アーティスト・ユニオン九州支部」を務めていた際、理想として掲げたビジョンにも通じるように感じます。
「理想は、美術家の生活を保障し、自前で画廊を持って、自前で企画をしたい。その道は遠い。だから、まず美術家たちが連帯し、自治体や美術家に働きかけ、美術のあり方を探りたい、と思う。」
(オチ・オサムの発言、「人・仕事 自主企画で美術展 文化をつくる母体めざす」[誌名不明] 1976年)。
それはどのような背景があったのか?とお伺いすると、この頃、どの団体に所属しているかなどにこだわらず、作家たちと新聞記者たちが和気あいあいと親交していた、それゆえに、様々な企画が生まれたということをお答えいただきました。
深野治企画によるグループ展「グループ連合による芸術の可能性展」目録(1968年)
確かに、会場には、「英雄たちの大祭典」に携わられた方々、作家の方々をはじめ、当時を知るたくさんの方がいらっしゃいました。深野氏を訪ねて多くの方々が見えられていることに、人と人とのつながりが文化をはぐくむ大切な要素であることを、改めて感じました。貴重な証言から、福岡の表現の現場をこれからも盛り上げていくために必要なエッセンスを教えていただいた時間となりました。
(近現代美術係 忠あゆみ)