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カテゴリー:コレクション展 古美術

コレクション展 古美術

「仙厓展」開幕しました

 先週から古美術企画展示室にて「仙厓展」を開催しています(~10月19日まで)。
仙厓義梵(1750~1837)は、江戸時代に活躍した禅僧で、親しみやすい書画を通して禅の教えを分かりやすく伝えたことから「博多の仙厓さん」と呼ばれ人々から慕われました。
当館では200点を超える仙厓作品を所蔵しており、仙厓さんの命日である10月7日に合わせて毎年仙厓展を開催しています。
 今年のテーマは、「『禅僧・仙厓義梵』から『博多の仙厓さん』へ」にしました。仙厓さんといえば愛らしい動物やユーモアあふれる禅画が有名ですが、若い頃に描いていた禅の厳しさを感じさせる作品とのギャップをどのように理解すればいいのか?私にとっても長年の課題であり、所蔵作品を通してこの問題を考えてみたいという思いで今回の展示を企画しました。
仙厓さんの画風は、62歳の時に長年勤めてきた博多・聖福寺の住職を隠退し、人びとの求めに応じて書画制作を行うようになった頃から徐々に親しみやすさを増していったと言われています。まずは、当時の仙厓さんの心境をよく表す作品として、《観音菩薩図》を紹介しましょう。

仙厓義梵《観音菩薩図》(九州大学文学部蔵、福岡市美術館寄託)

 のびやかな筆遣いで描かれたからっとした笑顔の観音がとても印象深い作品です。上部には長大な賛文が記されていて、他人の利益のために起こすならば、喜怒哀楽の感情はすべて観音菩薩の慈悲の心になる、と述べられています。
 本作が描かれたのは、仙厓さんが住職を隠退して間もない65歳のころ。自身の修行はもちろん、弟子の育成やお堂の再建をはじめとするお寺の運営など、現役時代は多忙な日々を送っていましたが、こうした激務から解放された仙厓さんのセカンドライフはどのようなものだったのでしょう?
 おそらく彼の念頭にあったのは、禅僧として培ってきた知識や経験を次の世代へ継承したい、特に禅宗の知識に乏しい一般の人びとに伝えたいという思いだったのではないでしょうか。先ほど紹介した《観音菩薩図》はまさにその好例で、書画を通して「他人の利益のために」自身の知識を伝えていきたいという強い意気込みを感じさせます。この頃の仙厓さんは執筆活動も旺盛に行っていて、いくつかの著作も伝わります。
 一方で、こうした仙厓さんの思いが100%人びとに伝わったのか、と言われると必ずしもそうではなかっただろうと思います。というのも、《観音菩薩図》に描かれた観音の姿は確かに親しみやすいものの、いかんせん賛文が長すぎるので画とのバランスを崩してしまっていますし、内容をぱっと理解することもできません。
 仙厓さんが聖福寺の住職を隠退して間もない60代後半ころの作品の中には、画は親しみやすいけれど賛文はやたらと長い、という傾向を持つ作品が少なくありません。

仙厓義梵《尾上心七早替り図》

仙厓義梵《いろは弁図》(小西コレクション)

 自身の思いを言葉を尽くして伝えようとするあまり、かえって作品の魅力を削いでしまっていると言えるかもしれません。そもそも、禅宗とは「不立文字(真理は文字や言葉では伝えることはできない)」「以心伝心(真理は心から心へと伝えるものである)」という言葉に示されるように、文字や言葉ではなく心を大切にする教えです。
 文字や言葉に頼ることなく思いを伝えるにはどうすればいいのか?おそらく仙厓さん自身もこの課題を自覚したようで、70歳を過ぎたあたりから賛文がやたらと長いタイプの作品は描かれなくなります。
 そのきっかけを示す作品に《無法の竹図》があります。

仙厓義梵《無法の竹図》(三宅コレクション)

 一見何の変哲もない竹の作品にも見えますが、賛では明確に仙厓さんの心境の変化が認められます。本作の賛には画を見ることで人が皆笑い、仙厓自身も大笑いする、と書かれています。
 どうやら本作は酒宴の席で描かれたもののようで、余興的な作画でどっと笑いをとったことは、仙厓さんに大きな気づきを与えたのではないかと想像します。
 すなわち、それまでは自身の悟りを言葉によって伝えることに意を尽くしていましたが、そうではなく、笑いなどを通して、皆で同じ思いを共有するという体験がより重要なことだと認識するに至ったのではないかと思うのです。
 このように想像すると、厳しい修行に励んだ禅僧であった仙厓さんが、なぜゆるくてかわいい画を描くようになったのか、という疑問も幾分理解がしやすくなると思いますがいかがでしょうか?

 この想像があたっているのかはもう少し検証が必要ですが、ともあれ、仙厓さんが生み出した愛らしい作品の数々は見る人に笑ってほしい、という思いに支えられて描かれたことは確かです。少し理屈っぽい話になりましたが、展覧会ではかわいい作品もたくさんご紹介しています。この機会にぜひご覧ください!

(学芸員 古美術担当 宮田太樹)

コレクション展 古美術

松永耳庵翁の夏

当館松永記念館室にて「松永耳庵 夏の茶事」展を開催中です(8月17日まで)。
本展は、松永耳庵[安左エ門]翁が催した茶事の記録に基づいて、館蔵の松永コレクションを中心とする現存作品によって再現的に展示する試みで、2019年「松永耳庵の茶」展、2023年「老欅荘の松永耳庵」展に続く、第3弾となります。

ここでいう茶事の記録というのは、ご本人が書き残したものも当然含まれますが、それはわずかであり、大半は茶友・仰木政斎[政吉]翁が日記をもとに書きためた『雲中庵茶会記』という書物に残されています。耳庵翁より4つ年下の政斎翁は、耳庵翁が茶を始める前から親交が厚く、戦局が悪化した時には耳庵翁が居住していた別荘「柳瀬荘」に夫妻で疎開していたほど。とても筆マメな方だったようで、自らの茶事はもちろん、諸家に招かれた茶事の様子を事細かに記録しています。

本書には、1930~1958年の間の自他の茶事を中心に、茶友と出かけた旅日記、世情や茶にまつわる随想を含めて(私が数えたところでは)計635件が収録されているのですが、そのうちの約4分の1にあたる144件が、耳庵翁が催した茶事に関する記録なのです。その書きぶりは、いわゆる「茶会記」といってイメージされるようなかしこまったものではなく、道具の取り合わせ、亭主の言動などを実況中継するかのように丁寧に描写し、自由に批評しているのです。耳庵翁以外の数寄者たちの記録も同様であり、本書は、近代茶道史をつむいだ人々の茶の湯を通じた交流の様を鮮やかに伝える稀有な資料として注目されています。
ただ本書は活字化されたものがなかったため、当館学芸課では2017年より本書の翻刻作業を進め、毎年その成果を研究紀要に掲載しています。『雲中庵茶会記』の翻刻作業については、ブログ:「松永さんが呼んでいる」もご参照ください。
本年3月発行の最新号で、やっとこさ4割の活字化が終わったところです。翻刻こそこんなスローペースですが、耳庵翁の茶事144件の内容は全て整理しているので、現存作品と照合しながら、今回のような展示で紹介しているという次第です。

前置きが長くなりましたが、今回取り上げた茶事は3件(1949年7月16日、1954年8月1日、1957年6月30日)。そう、季節に合わせて「夏」の茶事を取りあげました。耳庵翁は夏にどのような茶道具を用いたのでしょうか。18件の作品により展観いたします。(「松永耳庵 夏の茶事」展示解説リーフレット
松永記念館室では毎年春と秋にそれぞれ名品展を開催し、季節に相応しい茶道具を中心に展観していますが、夏と冬の茶道具に注目することは殆どありませんでした。そこで今回の企画を思いついたもので、いずれ冬バージョンも企画したいと考えています。
さて今展、1949年7月の「黄梅庵の昼会」は前回も紹介したものですが、後座の床に飾った益田鈍翁旧蔵の《白錆籠花入》、広間の床に掛けた伝・宗達《蓮池図》など、まさに時節に相応しい作品が並びます。


前回は触れませんでしたが、この茶事については耳庵翁本人も自著で触れており、濃茶に用いた《青井戸茶碗 銘「瀬尾」》のチョイスについて、反省をしています。というのは、当初は夏らしく平茶碗の《蕎麦茶碗 銘「夕月」》を用いる予定で準備していたものの、水指が平水指であるため重複してしまうので、青井戸茶碗に変更したが、結果的には楽茶碗がよかった・・・云々(『わが茶日夕』400頁)。青井戸ではなく楽茶碗が良かったと思われた理由については書かれておらず、この平水指の所在も不明なので何ともわかりませんが、招客が誰であってもひとつの茶事のために熟考を重ね、最善を尽くした翁の真心に触れる思いです。

今回のような展示を企画する上で「ネタ帳」のような存在となる144件の茶事の記録。それに記される膨大な茶道具を現存する作品と照合してゆく作業は、無数のパズル片を一つ一つ繋げ、埋めていく作業に似ています。もとよりパズル片の数自体に限りがあるわけで、照合、同定できるものはわずかです。わずかであるからこそ、見つけたときの喜びもひとしおです。
美術館に収蔵されて「美術品」となった茶道具たちの、道具としての輝きに注目する展覧会です。
会期は8月17日(日)まで。ご来場お待ちしております。

(学芸課長 後藤 恒)

 

 

コレクション展 古美術

「つきなみ講座」を終えて

5月の「つきなみ講座」を担当させて頂きました。
日曜日の貴重なお時間にも関わらず、私の拙い話を聴講して頂いた方、この場を借りて御礼申し上げます。
その「つきなみ講座」では、現在開催中(6月22日まで)の「九州の古陶に魅せられた 田中丸善八の眼」展に合わせて、田中丸善八翁が九州古陶磁を蒐集し、そして実際に宴席の器として用いた話や、芳名録代わりの色紙、仲の良かった松永耳庵との風流なやり取りについてお話しさせて頂きました。

古陶磁コレクターというのは、世の中にたくさんいらっしゃいます。
長年、こういう世界で仕事をしていると、茶事や茶会で古い器を用いるというのは見聞きしたり経験したりもしていますが、宴席に用いるコレクターというのは私の知る限り聞いたことがありません。
というのも、宴席に用いると器が割れてしまう確率が高くなるからです。
宴席では酒が入りますから、酔いがまわって粗相する人がいるかもしれない。
また、10人もの客がお見えになると、料理の品数にもよりますが、だいたい80客から100客ほどの器が必要になってきます。その準備や後片付けもしなくてはならない。しかし、善八翁はそんなことは苦とも思わず、愉しんで用いた。

よくよく考えてみると、器は本来、観賞用に作られたものではなく、茶を点じたり、料理を盛り付けて食するために作られたものです。
ただ単に形や文様を「観る」だけに終わらず、器というものはほかにも「選ぶ」と「使う」が含まれます。
季節や年中行事、人生の節目、客の好みに応じて器を選んだり、料理との映りや器と器との取り合わせに心を配る。そして、花入には花を、茶碗には御茶を、向付や鉢には料理を、徳利やぐい呑には酒を、というように器本来の使い方をしてこそ器が生きてくる—。
善八翁は古陶磁を蒐集するにつれ、いつの頃からか、そういった器本来の用い方というものに思い至ったのでしょう。

九州古陶磁に奥様の手料理と酒でもてなす田中丸邸の宴席—。想像するにその宴席では、客と酒を酌み交わしつつ奥様の手料理を味わいながら、その器の歴史からはじまり、陶工の事やデザインの事、他の焼物の事にも話が膨らんでいく—。
善八翁はそうしたことに、古陶磁コレクターとしての愉しみや喜びを覚えたのではないか。

そして最後に善八翁は客にこう言ったに違いありません。
「ね、九州の焼物って、素晴らしいでしょう」と。

(一般財団法人田中丸コレクション 学芸員 久保山 炎)

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