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カテゴリー:コレクション展 古美術

コレクション展 古美術

「茶人の『好み』」展、開催中です

ただいま1階・松永記念館室で開催中の「茶人の『好み』」展(9月29日まで)。内容としては茶道具の名品を時代順に紹介するという極めてオーソドックスな展示ですが、あえて新味をあげるとすればタイトルにもありますが「好み」に注目していることです。好みは人それぞれ、とはいうものの、個人の嗜好が地域や時代を軽々とこえていくことは、聖子ちゃんカットが人々の間で大きなブームを巻き起こしたことからも明らかです。本展では、千利休、古田織部、小堀遠州といったドラマや小説、漫画などでお馴染みの茶人たちの好みに焦点をあて、彼らの美意識がつまった茶道具とともにご紹介します。

 

1.千利休―好みの道具を自らプロデュースする―

千利休は日本で最も有名な茶人といってよいでしょう。織田信長や豊臣秀吉といった天下人に仕えた茶人として大河ドラマなどで主要キャラクターとして登場することもしばしばです。ですが、利休っていったい何がすごいの?と聞かれて答えられる人はあまり多くはないのでは。知名度に比べると実像がつかみにくい人物なのです。本展のテーマに関していえば、「好み」の道具を自ら作らせたというのが、利休の最大の功績ということができます。勿論、利休以前の茶の湯でも、茶人の好みが反映されることはありました。ですが、それは主として道具の取り合わせ、つまり、茶碗に唐物を用いるか高麗物を用いるのか、あるいは、掛軸は何を飾るかといった、コーディネートに関する部分においてでした。これに飽き足らなかった利休は、自身の美意識に見合う茶道具をプロデュースしました。そんな利休好みの茶道具の代表と呼べるのが、《黒楽茶碗 銘「次郎坊」》です。

《黒楽茶碗 銘「次郎坊」》

一見何の変哲もない地味な黒茶碗ですが、ここには利休の美意識がぎゅっと凝縮されています。この茶碗の一体何がすごいのか?会場でお確かめください。

 

2.古田織部―溢れるおもてなし精神―

利休の登場により、茶人の好みはコーディネートだけでなく、デザイン/プロデュースへと広がりましたが、これを継承・発展させたのが古田織部でした。織部が目指したのは武家の時代に相応しい明るく力強い茶の湯。侘びを本旨とする利休好みとは対極ともいえるものでした。織部好みの茶道具として《黒織部沓茶碗 銘「浜千鳥」》をご紹介します。

《黒織部沓茶碗 銘「浜千鳥」》

どこをどう持てばよいのか迷うほどに歪んだ茶碗。お世辞にも実用的とは言い難く、これでお茶を出された日にはとりあえず笑うしかありません。茶の湯において客と亭主の心が通い合うことを「一座建立」といいますが、いびつな形の茶碗に面食らい笑みがこぼれた瞬間は、まさに客と亭主とが笑いを共有した状態といえます。茶の湯の基本であるおもてなしの精神を極限まで追求した茶碗なのです。実は、この茶碗には客を驚かせるための仕掛けがもう1つ施されていますので、会場でお確かめください。織部好みの茶道具は武家の気風にもマッチしたのでしょう、またたく間に流行し全国で同じような趣向の茶道具が作られるようになりました。「人それぞれ」の好みが地域をこえて支持を集めた瞬間です。

 

3.小堀遠州―時代を超える美意識―

武家に評価された織部でしたが、徳川幕府によって泰平の世が築かれつつある中で、彼の茶の湯は時代にそぐわないものとみなされるようになっていきます。利休や織部が活躍した時代は、彼らがプロデュースした新作の茶道具がもてはやされましたが、安定志向が強まる世相を反映し、唐物などの伝統的な名品が再び評価を高めていきます。ところが、ここで困ったことが1つ。価値の定まった名品の茶道具は、既に納まるところに納まっており、もはや入手困難だったのです。特にこれから茶の湯を始めようとする新参の大名たちにとっては頭の痛い問題でした。そこに登場したのが、織部の後継者であった小堀遠州です。遠州は、まだ評価が定まっていない茶道具に新たな価値づけを行うことで、増大する需要に答えました。遠州が茶道具にどのように付加価値を与えたのか、その様子が分かる作品が《瀬戸肩衝茶入 銘「辰市」》です。

《瀬戸肩衝茶入 銘「辰市」》

すらりと伸びた長身が印象的な茶入ですが、少し肩が張りすぎですし、よく見ると表面に小さなぶつぶつがたくさん…。名品と呼ぶには技術的に拙い所が散見される茶入ではありますが、遠州はどこに美を見出したのでしょう?ヒントは銘(ニックネーム)です。このような価値づけが意味を持ったのも遠州の美意識が人々から支持を受けていたからこそ。「きれいさび」とも称される上品で繊細な美意識は《高取掛分下面取筒茶碗》にはっきりとあらわれています。

 

《高取掛分下面取筒茶碗》

遠州好みの茶道具は泰平の世に誠に相応しく、時代を超えて受け継がれることとなったのです。

(学芸員 古美術担当 宮田太樹 )

コレクション展 古美術

絵唐津あやめ文茶碗 ただいま展示中

リニューアル工事のため、2年ほどお休みしていましたが、古美術企画展示室ではいよいよ田中丸コレクション展がはじまりました。(7/28まで)
その間、「絵唐津あやめ文茶碗はいつ見られるのか?」と多くの方からお問い合わせをいただきましたが、ようやく展示することができました。

《絵唐津菖蒲文茶碗》(重要文化財)田中丸コレクション

開催中の田中丸コレクション展は、唐津焼と高取焼をテーマに福岡市美術館の所蔵品を含めた合計52件を展示しています。

今回、はじめての試みとして、唐津焼と高取焼を生産した〝窯跡〟を表記し、地図上でその〝窯跡〟の場所が確認できるよう古窯跡分布図をパネルにしています。「唐津焼古窯跡分布図」は河川や当時の街道を記したもので、意外なことにこれまで作成された唐津焼の古窯跡分布図にはなかった地図なのです。
この地図によって〝窯跡〟というのは、川沿いにある程度まとまって築かれ、街道近くに集中していることがわかります。当時はこうした街道を通って唐津焼の製品が続々と港へ運ばれていたのだなぁ、などと往時を偲びつつ、唐津焼を立体的な視点で鑑賞していただけるのではないかと思っています。
この「唐津焼古窯跡分布図」は、唐津市教員委員会の陣内康光さんに心良くご提供していただいたものです。この場を借りて御礼申し上げます。

「唐津焼古窯跡分布図」詳細はぜひ展示室でご覧ください。

ところで福岡市美術館のリニューアル工事に伴って、古美術企画展示室も黒と白を基調としたモダンな展示室に改装されているのをご存知でしたか?
展示ケースの照明が、色や明るさを自由に調節できるようになり、ガラス越しとはいえ焼物本来の微妙な質感や釉調を感じられるようになっています。
以前にも増して、田中丸コレクションの器がとても鑑賞しやすくなっていますので、ぜひ足をお運びください。

(一般財団法人田中丸コレクション 学芸員 久保山炎)

コレクション展 古美術

松永耳庵の茶、その再現に挑む

1階・松永記念館室にて「松永耳庵の茶」展を開催中です(7/28まで)。松永耳庵翁の茶事・茶会に実際に用いられた茶道具を、エピソードとともに紹介するものです。趣旨はシンプルなのですが、今回の展示構成にはけっこうな労力を要しました。そのあたりの事情も含め、本展をより楽しんでいただくために知っておいていただければ、と思うことを書きつらねてみます。

 

◆耳庵・松永安左エ門と「松永コレクション」
戦前戦後の電力業界で活躍し「電力王」「電力の鬼」などと称された松永安左エ門(1875-1971)は、還暦を迎える頃から耳庵と号し、茶の湯の世界に足を踏み入れました。

やると決めたら徹底して、やる!持ち前の実行力をもって破竹の勢いで茶道具の名品を蒐集し、戦中にあっても茶に明け暮れ、やがて益田鈍翁、原三溪とならび称される高名な茶人となったのでした。

その過程で蒐集した古美術品は、日本・東洋美術の名品コレクションとして屈指の質を誇ります。主に戦前に蒐集したものが東京国立博物館に、戦後に蒐集したものが当館に寄贈されています。当館では「松永コレクション」と呼ばれています。

ちなみに当館職員の多くは松永翁のことを「松永さん」と呼んでいます。「うちのおじいちゃん」と呼ぶ人までいます。偉人に対して失礼かとも思われるでしょうが、なぜかそう呼んでしまうのです。鬼とまで呼ばれた男のことを知れば知るほど、その柄の大きさに感じ入り、底なしの懐の深さに吸い込まれ、自然と親しみを抱いてしまうのです。

松永耳庵

◆茶風と道具組
松永さんの茶風はといえば「荒ぶる侘び」などと形容される(『芸術新潮』2002年2月号)ほどに、豪胆なイメージで語られることが多いです。それもそのはず、点前などの作法については、茶匠から一定の手ほどきを受けることはあったものの、ついに所定の作法を身に付けることはなく、最後まで我流を貫いたようです。あるとき招客から流派を聞かれ、「新派、柳瀬流です」と冗談めかして答えたそうです(この「柳瀬」とは、埼玉に構えた自身の別荘「柳瀬山荘」に由来します)。人はそれを「耳庵流」などと呼びました。ついには松永さんを指導したはずの茶匠が「耳庵流」の影響を受けて作法に変化をきたしてしまったという逸話もあります。

よく言えば個性的、悪くいえば無作法な松永さんの茶。それはどこまでも簡素な侘びの美意識に基づくものでした。原三溪や仰木魯堂の薫陶を受け、因習的な作法にこだわらず、生活に密着した実践的な茶で客人をもてなしたのでした。それを体験した人々は、儀礼的、形式的な美を超越した類のない魅力に引き込まれ、喜び、親しみ、笑い、敬い、様々に語り継ぐことで、一大茶人を育んだといえるでしょう。

では、松永さんは実際にどんな道具組で茶事を行ったのでしょうか?それを明らかにするためには、残された記録(茶会記)を読んで情報を整理することと、記録と現存する美術資料とを照合してゆくことが必要です。実はこれがあまり進んでいません。

戦前については『茶道三年』『茶道春秋』という自著の中で、松永さん自身の茶会記や独自の茶論が記述されています。いっぽう戦後については、電力事業再編成の主導役に抜擢されるなど多忙な日々にあって自身の茶会記を残していないか、あるいは残していたとしても、その存在は明らかになっていません。

 

◆『雲中庵茶会記』の重要性
前述の通り、当館の松永コレクションの殆どは戦後の蒐集品であるため、松永さん自身の記録から茶事の道具組を再現することは現状において不可能です。そんな中、よりどころになるのが、松永さんの茶事に招かれた人が残した記録です。なかでも仰木魯堂の弟・政斎が著した『雲中庵茶会記』は、松永さんをはじめ同時代の名だたる近代数寄者の茶事が記録されています。仰木兄弟はともに松永さんと親密に交流したのですが、とくに政斎さんは戦時中、松永さんの別荘「柳瀬山荘」に疎開し、戦火におびえる日々の中でも、松永さんの茶にとことん付き合いました。戦後も、小田原へ引っ越した松永さんのもとへ何度も招かれ、耳庵流のもてなしを何度も体験しました。

『雲中庵茶会記』には、松永さんの動向を客観的に、かつ実時間的に描写した記述が非常に多く、茶事の様子を垣間見られるばかりか、人間・松永耳庵の横顔を生き生きと伝えてくれます。戦後の蒐集品を主とする当館の松永コレクションがどのように茶事で用いられたかを再現する上では、必読の書なのです。しかし本書は非売品の影印本(原書を写真撮影して印刷したもの)が知られるのみであるため、研究資料として広く活用されるには翻刻(活字化)が強く望まれます。

『雲中庵茶会記』

そこで数年前から本書の翻刻に着手しました。できた分から当館の紀要(当館ホームページからダウンロードできます。第5号、第6号をご覧ください)に掲載しています。でも本書は総じて1200頁を超すぶ厚さであり、今のペースだと私が定年退職するまでに全頁翻刻を果たせるかどうかも微妙なところ。まぁ、出来るだけ頑張ります!ともあれ全体の粗読みは行い、目次づくりや記録された茶事の席主、招客、用いられた主な道具の情報を整理する作業は地道に進めています。

 

◆「松永耳庵の茶」展の試み
このたびの「松永耳庵の茶」展は、『雲中庵茶会記』の読書、翻刻をする中で得られた成果の一部を発表する場として企画したものです。政斎さんが記録した膨大な道具組の情報の中から、当館の松永コレクションに同定される作品を抽出し、出陳リストを構成。今回は4の茶事について、断片的ではありますが可能な限りの再現を試みました。(出陳リストはこちら

「松永耳庵の茶」展示風景

今後、成果に応じて随時開催したいと思っています。戦後の松永さんの茶事、その道具組を少しでも明らかにしてゆくことで、当館の松永コレクションがかつて演じた舞台の光景がよみがえってきます。その光景は、皆さんの眼にどう映るでしょうか。まさしく「荒ぶる侘び」でしょうか、それとも…?

(主任学芸主事 古美術担当 後藤 恒)

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