2020年8月5日 13:08
広島に原爆が投下されて75年になります。
2階近現代美術室Bで開催中の「殿敷侃展」で取り上げている殿敷侃(とのしきただし)は1942年広島生まれの美術家です。1945年当時、殿敷の父親は爆心地にほど近い広島郵便局に勤務し、殿敷は母親と姉とともに広島県世羅郡に疎開していました。原爆投下から数日後、殿敷は母親に背負われ、姉とともに父親を捜しに広島市内に入り、二次被ばくします。原爆で父親を、その5年後母親を亡くした幼少期の苦労ははかり知れませんが、20歳の時長期入院していた病院で開かれた絵画教室で美術と出会い、短期間のうちに数々の展覧会へ出品するようになるほどのめりこみ、やがて国鉄の職を辞め、美術を生業とするようになります。

左:《自画像のある風景》1969年、右:《は 1》1970年
被ばくによって命を落とした者たちや彼らを忘却した社会をポップアート風に描いた絵画や、父親の爪をもとにした三日月形を無数に刻み、父の霊が地から湧き上がってくるイメージをつくりだした版画「霊地」シリーズ等に顕著なように、殿敷にとって原爆体験は活動の根底にあり、表現することの原動力でもありました。そして「霊地」の版を新聞紙やポスターに重ねて刷るなど、原爆の記憶は自身が生きる同時代の社会にも接続されてゆきます。1983年頃より殿敷の作品はインスタレーションへと展開しますが、例えば生活廃棄物を集め焼き固めた塊で構成された《お好み焼き風料理法》はタイトルとその形状から広島の名物そして焦土の風景をも想起させるとともに、消費経済一辺倒の社会に対する過激な問いかけでもありました。ほかにも古タイヤや海岸に打ち捨てられた木片などを集め、空間にぶちまけたり、出入口を塞いだり。殿敷は社会のなかで隠蔽されている現実や人々が見ないようにしてきた現実を突きつけ、時に人を巻き込み、見える景色を変え、鈍った意識を揺るがすような活動を亡くなる直前まで続けました。
「殿敷侃展」では、2018年度ご遺族により寄贈された18作品をすべて展示公開しています。当館企画の展覧会にも複数回参加し、自らも個展を開くなど福岡市ともゆかりある殿敷の作品が当館のコレクションに加わり、その活動を俯瞰できるようになったことで、見えてくるものも多いように思います。しかしながら1983年以降殿敷が特に力を注いだインスタレーションやアートプロジェクトについては、写真等の資料や先行研究をたどるしかありません。本展では、福岡で作品を発表した際の記録写真や当館が所蔵する関連資料も一部展示紹介しています。

写真奥のパネルでは、1985年の「第2回アジア美術展」(福岡市美術館)で展示された《お好み焼き風料理法》、1989年「個展 まっ赤にぬられてハカタが視えた」(ギャラリー・ロワ、福岡市)、1990年「個展 BARRICADE-TYRE」(福岡市美術館特別展示室B)の記録写真を紹介しています。

ケース内には、生活廃棄物を地に掘った穴に埋め焼き固めたプロジェクト「ゴミ拾いをアートするイベント 山口―日本海―二位ノ浜」の資料や、《まっ赤にぬられてヒロシマが視えた》の記録写真、ギャラリー・ロワでの個展リーフレット等を展示しています。
さて、展覧会準備で資料をあたるなかで、古い新聞記事が目に留まりました。福岡市中央区大名にあったギャラリー・ロワで開催された「まっ赤にぬられてハカタが視えた」と題する個展(1989年9月9日~17日)を取り上げたものです。この個展で殿敷は、赤い塗料を塗りたくったビニールシートをギャラリー空間にはりめぐらせました。殿敷は新聞記事で次のように語っています。
ギャラリー内の壁や窓、ドアを水性塗料で真っ赤に染めました。赤は私の血や体を表しており、この赤を通して博多という街がどう見えるかというのが狙いです。ことし初め、ギャラリーを下見したとき、街が見える窓がポイントだと直感し、アイデアを考えました。衝撃的な場を観客には感覚的に味わってもらえればと思っています。
常に社会との接点を持ち、メッセージを伝えるアートを目指しています。枯れた松の木に文明を象徴させた古タイヤをぶら下げたり、ソウル市で拾い集めたゴミだけで構成した作品展示など廃棄物や環境問題に対する危機感ですが、現状は一段と深刻になっています。
(「近況 赤一色の個展 殿敷侃」『西日本新聞』1989年9月13日夕刊から抜粋)
ギャラリー空間を自らの血肉を表わす「赤」で覆い、息づかせた個展の2年前の1987年7月18日、殿敷は同じく赤い塗料でドローイングを施した長さ100メートルものビニールシートを市民とともに原爆ドーム前にフェンスのように立てるイベント《まっ赤にぬられてヒロシマが視えた》をおこなっていました。当時の記録写真を見ると、殿敷の激しい身体の動きや血液を想起させる赤い色が、一般の市民に支えられ、広島の街に浮かび上がっています。
2020年に生きるわたしたちは、これらの赤いインスタレーションの「衝撃的な場」を味わうことはできません。しかしながらその記録と、殿敷侃の「血や体」すなわち身体行為の結果ともいえる作品を味わい、過去と現在について考えてみることは可能でしょう。原爆投下を引き起こした戦争について、戦争を生んだ社会について、現在も変わらず続く経済至上主義について、そしてその中に埋もれてしまっている物事について。
(学芸員 近現代美術担当 正路佐知子)
当館の「殿敷侃展」は2020年8月30日まで、2回近現代美術室Bにてご覧いただけます。また、2017年に大規模な回顧展「殿敷侃:逆流の生まれるところ」を開催した広島市現代美術館においても現在、「コレクション展2020-1特集2宿命の芸術」のなかで、殿敷侃の作品が19点展示されています。(2020年9月27日まで)
2020年7月29日 13:07
みなさま、こんにちは。
毎年こどもたちの夏休みに合わせて開催している『夏休みこども美術館』、1990年から始まり今年でなんと30周年を迎えます。今年は「みるみるこわい絵の世界」と題しコレクション展示室近現代美術室Aにて開催しています。夏といえば怪談やこわいおばけがつきものですが、美術館の「こわい」は一味違います。みればみるほどこわい絵やこわいお話がかかれた絵、はらはら・どきどきする絵などいろいろなこわい絵の世界へみなさんをいざないます。
さて、この展覧会は「こわい」がテーマなのですが、みなさんが最近「こわい」と思うことはなんですか?私も幼いころはテレビで見る幽霊や怪談がこわかったです。今でもあまり得意ではないですが、今はそれよりも「こわい」ものがあります。例えば今だったら、〆切がこわいです(学芸員の方には結構多いかもしれません)。放っておいて後から手を付けようとすると時間がなくてとても焦ります。あとは、今までにやったことがないことも、こわくてなかなかチャレンジできません。でも、前に進むためにはこの「こわい」にちゃんと向き合うことが大切だと、私自身の経験の中で思いました。今回の展覧会では、こどもたちが「こわい」、「よくわからない」に向き合う機会にしてほしいと思い、あえて「こわい」をテーマに選びました。

展示会場の照明は、「こわい」雰囲気が出ると思い、普段より少し暗めに設定しています。

展覧会では、4つの章にわけて作品を紹介しています。章ごとに、作品をみるときに注目してほしいことを書いた、写真のようなパネルをおいています。作品を見る前に、ぜひパネルを読んでみてください。
各章はこのようになっています。
◆みればみるほどこわい
ぶきみでおそろしいものがかかれている。よーくみてみよう。何がみえたかな?
◆はなしがこわい
ここにかざってある絵には物語があるよ。どんなおはなしなんだろう?
◆はらはらしてこわい
あぶない!なにをしているんだろう?登場人物たちのセリフを考えてみよう。
◆こわいってなんだろう?
この絵、くらくもみえるけど、あかるくもみえるな。この絵はこわい?こわくない?どうしてそう思ったんだろう?
展示している作品は全部で13点あります。今日はそのなかから2点だけご紹介します。
1つめはこちらの作品です。

吉村忠夫《地獄変》1950
こちらは ◆はなしがこわい の章に展示している1点です。いったいどんなはなしが描かれているのでしょう?
闇の中には鳥の影、燃え盛る牛車のなかにはなんと女性が!?その周りの人たちは何をしているのでしょうか?登場人物をみてみましょう。

火の粉が上がる牛車の中にいるのは女性。縛られているみたいです。これだと自力で脱出はできないかも。

いちばん右の男性は松明を持っています。この人が火をつけたのでしょうか?

真ん中にいる男性は手を伸ばしています。炎の中にいる女性を助けようとしているのでしょうか?

いちばん左にいる男性は慌てることもなく平然と座って、燃え盛る炎をじっとみつめています。
こちらは吉村忠夫が描いた《地獄変》です。小説家芥川龍之介の同名小説「地獄変」の一場面を描いた作品です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、この小説のあらすじは、絵師が地獄変(地獄を描いた絵)を依頼されて、燃え盛る女の姿が描きたいが自分は見たものしか描けないから、せめて牛車が燃える姿を見せて欲しいと依頼主に頼みます。しかし意地の悪い依頼主が用意した牛車には、絵師の娘が縛られて入れられていました。最初は戸惑い助けようとする絵師も、牛車に火がつけられると炎の中で苦しむ娘の姿をただ見つめるばかり。その後、絵師は立派な地獄変を完成させ自殺するというものです。
この作品を見ていると、自分の美や理想を追求するためにどこまで許されるのか、自分は大丈夫だろうか、などいろいろ考えさせられます。みなさんはいかがでしょうか?もし物語を知らなくても、描かれた情景や人物たちから、想像して絵から読み取ることを楽しんでみてください。
もうひとつの作品はこちらです。
こちらは ◆はらはらしてこわい の章で紹介している作品です。
さっそく見てみましょう。

アンリ・マティス《ジャズ サーベルをのみこむ人》1947
紫と青、赤、そして白と黒、鮮やかな色が使われています。
いったいなにをしてるのでしょう?
以前いらっしゃったお客さまはおふだを飲み込んでいる姿だと言われていました。たしかに薄っぺらい紙を口に入れているようにもみえます。しかし、タイトルは《サーベルをのみこむ人》です。どうやらサーベルを飲み込んでいる人を表しているようです。いろいろ想像が膨らみます。ちなみに私は最初にこの絵をみたとき、口に丸太3本を突っ込まれて目は涙目になっていて拷問されているのかと思いました。
実は、こちらの作品はサーカスから発想を得て描かれています。フランスの画家アンリ・マティスの作品です。サーカス、そう言われると「あらよっ!」という掛け声が聞こえて、あれよあれよと3本のサーベルをのみこんで得意げになっているようにみえます。また「ジャズ」というのは挿絵本の名前で、この作品はその本の中にある挿絵の一枚です。なので、左端には本のページ数の90という文字が入っています。よーくみると、私はなんだか楽しげな作品に見えてきました。みなさまはいかがでしょうか?もしかすると、作品のタイトルよりもっと面白い情景に見えた方もいらっしゃるかもしれません。この作品は、シンプルな造形ですが人によって見え方が違う、私はその違いが楽しい作品だなと思います。ぜひいっしょにいらした方に、「この絵どうみえる?」ってこっそり聞いてみてください。きっと自分が見ている見方とは違う見方が返ってくると思います。
以上ご紹介した2作品のほかにも、会場には美術館ならではの「こわい」作品が展示されています。
また特別なガイドマップもあります!

ガイドマップには作品ごとに絵を見るときのヒントが書かれているので、そちらを見ながらいっしょに来た人、あるいは自分自身と対話しながら、じっくり絵を見てみてください。よく見る前とよく見た後では絵の見え方が変わってくるし、また他の人の見方や意見にも耳を傾けると全然違っておもしろいかもしれません。
今年の夏は、ちょっとこわいけどでも楽しい、そんなアート体験はいかがでしょう。みなさまのご来場を心よりお待ちしております。
(教育普及係 上野真歩)
2020年7月22日 09:07
明日は海の日ですね。
海の日だから何がある、というわけでもないですが、ちょっと海に散歩に行きたくなってきます。海のない県で育ってきた身としては、少し歩けば海にたどり着くことって、かなり異常事態なのです。福岡市美術館のある大濠公園から草ヶ江の方までぶらぶらしていると、磯の香りがしてきて、えも言われぬうきうきを覚えます。百道浜へ向かうバスに乗った日には、きらめく水面やさびれたコンテナ(と読解不能な文字)が海の果てへと想像力を刺激します。

福岡市美術館の中で貝殻を発見!
今から80年ほど前に活動していた前衛美術グループ、ソシエテ・イルフにとっても、海は重要なモチーフでした。ソシエテ・イルフは、1930年代に福岡市を拠点に前衛写真や絵画を制作していた7人組です。実は、来年1月に開催する企画展「ソシエテ・イルフは前進する 福岡の前衛写真と絵画」に向けて、彼らの作品と資料についての情報を集めているところなのですが(ご存じの方がいらしたら、ぜひ情報をお寄せください!)、彼らの作品には頻繁に海が登場するのです。

久野久《海のショーウインドウ》1938年
例えばこの作品《海のショーウインドウ》は、彼らが海辺での創作を楽しんでいたことがよくわかる作品です。
アクリル板のようなものを組み合わせ、海岸に絶妙なバランスで作り上げられた構造物。板と板の隙間にできた四角形・三角形のなかには海で拾ったと思われる様々なものが配置されていて、砂からカニの手がぬっと伸びていたり、海藻のようなものがびろーんと垂れ下がったりしています。「ショーウインドウ」のマネキンのように、貝殻や海藻は三角形・四角形の中でポーズをとり、そのポーズが整然とした空間に動きや物語を生みだします。余白が多くすっきりとした印象の写真ですが、8枚の板を崩れないように組み合わせ、貝殻や、カニのはさみを集めてそっと乗せる作者の姿を想像すると、なかなかチャーミングです。
作者の久野久(1903-1946)は結核療養のために12歳で宗像郡津屋崎に転居し、生涯津屋崎を拠点にしていました。療養のため身動きを制限された久野にとって、撮影場所は必然的に身近な場所が多くなり、海岸をたびたび写しました。1939年にはソシエテ・イルフのメンバーを津屋崎に招いています。
やがて貝殻に魅せられ、貝の幾何学的な形態をクローズアップした作品を集中的に撮り始めます。この時代は愛好家向けのカメラ雑誌に、被写体を効果的に写し取るための技術がさかんに紹介されていました。久野にとって、レンズを通して貝殻の造形を精密に記録することは写真家としての使命となっていきます。

久野久《貝殻その5》1941年
浜で拾つた小さい貝の、レンズによつて拡大された像、それは肉眼で見る貝とは丸で違つた感覚を持つた貝となつて、私の前に現れたのであつた。之れは私にとつて大変な発見であつた。小さい生命を宿す此の貝にも、造形の神は想像を絶した美を与へ給ふた。正に想像を許さないその美しさではある。私は此の美しさを究めなければならぬと思つた。写真する私の、世の人々への解答を此の貝によつてこそと考へたのであつた。
(久野久「貝の話」『寫眞文化』1941年8月、アルス)
ソシエテ・イルフのメンバーにとって海がどのような場所だったのかについては、いくつもの読み取り方ができます。まっさらな砂浜と水平線は、「ここではないどこか」の象徴、とも解釈できます。しかしその一方で、福岡を拠点にしていた彼らにとって、海は自分たちの生活と地続きの場所でもあり、何よりも、創作意欲をそそられるモチーフとの出会いの場だったのかもしれません。
(学芸員 近現代美術担当 忠あゆみ)