2019年6月28日 12:06
どーも。館長の中山です。「福岡城だより」というNPO法人福岡城市民の会の広報誌の巻頭言(600字程度)を依頼されました。内容は、「福岡市美術館と福岡城(黒田藩)」にしてくださいということだったのですが、そんなことが書類に書いてあるのを知らずに(つまりちゃんと書類を読まずに)、最近あたまに浮かんでいることをちょこちょこっと書きました。なので、たぶん採用されずに書き直しになる公算が大です。まだ締め切りは先ですし。
それで、「せっかく書いたのに…。そうだ、ブログだ」と思いつきました。今回は、その原稿にちょこちょこっと手を入れて投稿します。ひょっとすると、巻頭言に採用されてしまうかもしれません。そのときはすみません。使いまわしになります。どっちがどっちの使いまわしか、ややこしいですけど。
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「埋蔵文化財も古美術でしょ?」と問いかけられたことがあります。「発掘品と伝世品、つまり地上から一度は失われたものと、ずっと守られ伝えられてきたものという違いはありますよ」と答えた記憶もあります。一方で、「火事のときはこれ持って逃げろ、と言われたから相当な値うちがあるはずだ」という掛軸を持ちこまれ、答えに困って「処分などしないで大切にしてください」と顔をゆがめて返答をしたことは一度や二度ではありません。
ミュージアムは収集資料を選びます。一応、淘汰といえるでしょう。選んで収集したものは保存し続けます。だから所蔵資料は確実に増え続ける。埋蔵文化財の場合、福岡のように掘れば何かが出てくる歴史ある土地ならなおさらです。破滅的な自然災害がなければ、それらはずっと地上から失われずに増えていくわけで、ちょっと未来が心配になります。
美術館と違い、博物館が扱う歴史資料は、近代以降の資料であっても一定の時間的な経過にともなって、これを保存し継承しようとする市民の意思が働いています。学芸員は民意の代弁者として資料を調査し、アーカイブするわけです。アーカイブして、ようやく名前もない得体のしれないものが文化財になるともいえます。ポップカルチャーやサブカルチャーのポップやサブを取り去るのにもアーカイブは必須です。いつでも再検証して位置づけ、価値づけができるアーカイブズがなければ、消費されて失われていくだけだからです。だから「なにこれ。わけわかんない」みたいなものをとりあげて展覧会に仕立て、ときには収集してアーカイブする美術館の学芸員は、「むかしは訳がわからなかったけれど、いま見るとすごくいいね」などと来館者に言われると、ほっとして胸をなでおろし、にわかに知ったかぶりの解説をはじめるのです。淘汰もアーカイブもなかなか難しいなあ。
(館長 中山喜一朗)
発掘品代表「壺形土器」重要文化財・松永コレクション
伝世品代表「吉野山図茶壷」重要文化財・松永コレクション
2019年6月27日 12:06
リニューアルオープン記念展期間中、多くの方にミュージアムショップ利用して頂き、誠にありがとうございました。6/22(土)より開催予定の「富野由悠季の世界-ガンダム、イデオン、そして今」に向けて関連商品を準備中です。
先日、当ブログでご紹介させて頂いた、こぶうしくんボールチェーンマスコットと常に売上上位を争っているグッズを紹介させて頂きます。江戸時代に個性的な多くの作品を残された仙厓義梵(せんがいぎぼん)さんの当館オリジナル商品です。
まずこちらは、縁起物「福かぶり猫」。「福かぶり猫」は、博多人形師 小副川太郎氏によるもので、猫の袋に入りたがる習性から「袋をかぶる=福をかぶる」そして「ふくおかぶる」にあやかった福岡ならではの招き猫です。その福岡市美術館オリジナルバージョンとして、福岡市美術館が所蔵する仙厓義梵《虎図》をモチーフにし作られました。人形は表情が一匹ずつ微妙に異なるので、お好きな顔の猫(虎?)をお持ち帰り下さい。
福かぶり猫 虎図 3,900円(税別)
つづいては、職人の手によって作られた注染手拭いです。プリントでは表現出来ない、微妙な色合いや柔らかい手触りをお楽しみ下さい。
注染 手拭い 仙厓義梵(虎図) 1,300円(税別)
注染 手拭い 仙厓義梵(ちらし) 1,300円(税別)
手軽にお買い求め頂けるオリジナルポストカードも人気です。
オリジナルポストカード 各柄110円(税別)
今回、紹介しきれなったグッズ以外にもマスキングテープや、付箋、関連書籍など多数の商品を揃えています。福岡市美術館にお越しの際には、是非ミュージアムショップをご利用下さい。
2019年6月25日 17:06
近現代美術係の忠です。2階のコレクション展示室で開催中の、「藤森静雄と『月映』の作家」(2019年5月30日~8月25日、コレクション展示室 近現代美術室B)を担当しています。
藤森静雄(1891-1943)は、久留米出身の版画家です。同郷の画家・青木繁との出会いをきっかけに画家を志し上京し、東京美術学校に入学、学生時代に木版画を作りはじめ、新聞小説の挿絵や童話制作など幅広く活躍しました。
このたびの展示は、そんな藤森が青春時代、田中恭吉、恩地孝四郎という二人の同志とともに作り上げた木版画と詩の同人誌『月映』を中心に作品と資料合わせて66点を紹介しています。
この記事では、展示の楽しみ方を、偏愛を込めて3つご提案したいと思います。
1. ほの暗い会場で『月映』のムードにひたる
「藤森静雄と『月映』の作家展」の展示室は、他の展示室に比べて、会場内の照度が低いです。これは、版画の作品が紙を支持体とするため、光や熱による劣化を防ぐための措置です。したがって、もともと意図したものではないのですが、結果としてこの薄暗さは、展覧会のテーマに合っているのではないかと思っています。というのは、『月映』には、その名の通り、月夜のムードが漂っているからです。
第1輯の冒頭に掲載された、田中恭吉による「つくはえ序歌」はこのような内容です。
しづやかに えみうたうもの
なみだぐみ かきならすもの
しらがねの つきてるつちに
しめやかに つどひたるもの
月の光の下に集い、木版画や詩を通して、「笑み」「涙」を表現するというコンセプトを3人は共有していました。月や夜のキーワードは作中にも表れ、藤森静雄は天体運動をモチーフにした作品もあります[No. 23《永遠の領》ほか]。彫ったところが光になり、残したところが影になるという版画の特徴も夜の闇と親和性があります。
全体にぼんやりと作品が浮かび上がるように見える照明が、月の下に集まる三人、というイメージと重なって感じられます。
「藤森静雄と『月映』の作家展」 展示風景
2. 資料から若き日の藤森静雄への想像を膨らませる
「藤森静雄の上京」のコーナーでは、ご遺族より寄贈を受けた、青年期の紙資料を展示し、藤森静雄の面影を辿る手がかりとしました。なかでも今回は、「汽笛の響」と「アルバム」に注目します。
「汽笛の響」(1908年)は、藤森の中学時代の日記です。彼は当時「つぼみ」というペンネームを名乗り、学校での出来事や友人たちとの放課後のエピソードをつづっていました。タイトルをつけ、表紙もきちんと作っているのがかわいらしいですが、挿画にも特徴が表れています。学帽を被った青年や、しゃれた着物姿の女学生を軽やかにとらえた絵柄が、ところどころに挟み込まれています。当時の雑誌は文章とイラストレーション(コマ絵)を組み合わせた紙面構成が一般的で、藤森も竹久夢二などが手掛けたコマ絵を見ていたのではないでしょうか。
展示の都合上、見開き2ページしかお見せすることができませんが、他のページにもたくさんのイラストレーションが配されています。藤森は上京後、仲間に「雑誌を作ろう」と持ち掛けますが、日記帳からは、中学時代からすでに創作意欲がみなぎっていたことがわかります。
『汽笛の響』1908年 墨、インク、紙
手作りのアルバムにもご注目ください[No.5 1913年のアルバム]。
アルバムには、上京後の藤森の交友関係がうかがわれる写真が多く貼り込んであります。藤森は1913年当時、美術予備校にほど近い東京の谷中・三崎町に住んでいました。
「à sansaky」(三崎にて)と書いてあるページには、すぐ近所の下宿に住んでいた田中恭吉や予備校仲間たちが写っており、下宿の庭で家族ぐるみで集まるなどして交友関係を結んでいたことがわかります。(展覧会では、焼き増しされていた写真を展示しています[No.3 写真資料])
アルバムに挟み込まれていた写真。③④が藤森。
藤森のポートレートは、こちらを覗き込むような表情でカメラを見据えており、闘争心あふれる青年時代の藤森の人柄が伝わってきます。
余談ですが、藤森と恩地孝四郎は面影が似ていて、待ちゆく人に「アラ!双子よ、あの二人」と言われたこともあったとか。会場内の集合写真でお確かめください。
3. 人体の表現を比較する
『月映』の収録作品には、しばしば肉体が描かれています。
よく知られているように、田中恭吉は当時不治の病とされていた肺結核を患い、療養先の和歌山で、藤森・恩地は手紙でやりとりしながら作品の制作・編集を続けました。1915年10月、23歳の若さで亡くなるまで、三人は共同作業のなかで『月映』を刊行し続け、思うままにならない身体を持つ苦しみと、ときにそれを忘れさせてくれる生の喜びをあらわすため、作品の中に身体を描きこんだのではないでしょうか。
人体をどのようにデフォルメするか、ポーズをとらせるか、その表現は三者三様で、個性の違いを見ることができます。均整の取れた鍛えられた身体ではなく、ねじれた身体、もだえる身体、地面に伏す身体など、その表現にはバリエーションがあります。
全身に緊張をみなぎらせているものもあれば、のびのびと四肢を伸ばしているものもあり、そのポーズは作家自身の内面を語っているようです。
恩地孝四郎《ただよへるもの》(『月映』Ⅲ所収)1914年
1914年の9月から1915年の11月まで、わずか1年余りで終刊した『月映』。
作家ごとの特徴は異なり、その後の展開もそれぞれなのですが、会場にずらりと並んでみると、三人の作品にはどこか共通するトーンを感じ取ることができます。それは、版画という媒体で心の中を表現するという新しい挑戦に取り組む高揚感を共有し、互いに切磋琢磨した証なのではないでしょうか。ぜひ会場で、三人の化学反応をお確かめください!
(学芸員 近現代美術担当 忠あゆみ)