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カテゴリー:総館長ブログ

総館長ブログ

自分史的巨大ロボット考

どーも。総館長の中山です。
ちょっと変かもしれませんが、いや、歳をとっただけかもしれませんが、わたしは「ロボット」という言葉の響きに郷愁を感じてしまいます。まだ字もろくに読めない頃の、遠くておぼろげな記憶の霧の中に立っているロボットは、アトムではなく鉄人なんです。1950年代の後半、四歳か五歳の頃に月刊誌『少年』で出会った鉄人28号は、月刊誌だけでなく、親にねだって買ってもらった単行本(吹き出しのセリフの一部までおぼえている。アトムの単行本は持っていなかった)や、子供心にも「これ、チャッチイ(幼稚、子供だまし)」と感じてしまった実写のテレビドラマ、テレビまんがとその勇ましい主題歌、グリコのオマケなどとともに、ながいあいだわたしの身近にいたロボットでした。

「日本の巨大ロボット群像」会場より

でも、鉄人の最初の最初は巨大じゃなかった記憶があります。原作者の横山光輝さんは「アトムを意識して鉄人を大きくした」みたいなことをおっしゃったとウェブの記事にはありましたが、この差は、つまり鉄人が初期の頃に巨大になったのは、けっこう重要だったと思うんです。
アトムも好きでしたが、アトムをロボットだと意識してまんがを読んでいた記憶はないんです。アトムはアトムでした。つまりなんというかキャラ。ほぼ人間なんです。人間サイズだし普通にしゃべるし、学校に通っているし、家族もいるし。しかし鉄人は、ガオーとしか言わないし、無表情だし、なにしろロボット。
たぶん人間に「なりたいロボット」と、そんなこと考えもしない「あくまでロボット」の二種類がいるのかもしれません。鉄人を巨大にしたのは、非人間化だったのでしょうか。非人間だからリモコンが悪者の手に渡ると鉄人も平気で悪者になるし、鉄人に善悪は関係ないのです。人間じゃないので、機械なので全然いいわけです。すっきりしている。わたしはすっきりしているのが好きだったのでしょう。お話のなかでいろんなことを考えさせられるのが苦手だったともいえます。
そういう鉄人が好きだったから、当然『マジンガーZ』も『ゲッターロボ』も好きだったわけで、子供とはいえない年齢になってからも「あくまでロボット」アニメをよろこんで見ていました。外からのリモコン操縦ではなくて中に乗り込んで操縦してもマジンガーが人間になるわけではないので「あくまでロボット」のままです。

「日本の巨大ロボット群像」会場より

デザインは凝りに凝るし、変形や合体があたりまえになるし、設定もどんどんリアルになるし(リアルになると機械であることが強調される)、当然のように単なる巨大ロボットのバトルものではない奥行のある作品も登場して、ついには原寸大のリアルな巨大ロボットがあちこちの町に屹立する現代に至り、「日本の巨大ロボット群像」という特別展が美術館学芸員(当館の山口洋三学芸員・現在は福岡アジア美術館学芸課長が監修)によって企画されても全然おかしくない地点にまで、彼らは成熟してきたわけです。わたし自身は、「あくまでロボット」が「モビルスーツ」と呼ばれる頃にはもうオジサンになってしまっていて、プラモデルも作らなくなってしまい、巨大ロボットの世界が広がり進化していく様子を時々チラチラと覗き込むだけで、ほとんどは距離をとって眺めるだけになりました。

「日本の巨大ロボット群像」会場より

海外も含めたロボット文化で思い出すのはアイザック・アシモフがSF小説『われはロボット』(1950年)に登場させた「ロボット工学の三原則」。工学の原則といいながら、SFにミステリ要素をうまく付加して物語を広げていく画期的なアイデアでしたし、ロボットを考えることは人間性とは何かを考えることにつながっているのだと教えられました。しかしそれ以上に、地球人と宇宙人の対立と共存、ロボット差別や反ロボット運動などを描いた『鉄腕アトム』は先駆的だったと思います。人間と機械(人工知能)の関係(共存というか、共栄というか)は、きわめて現代的なテーマです。さすが手塚治虫。幼いわたしは、そういうちょっと重たい問題を意識させられるのが苦手だったわけです。
歳をとったせいか、最近では「なりたいロボット」も気になります。5、6年ほど前の『ニーア オートマタ』というアクションRPG(ビデオゲームでアニメ化もされた)には、異星人が製造した兵器である機械生命体(みごとにロボットらしいロボット)が、地球を侵略して破壊しているくせに、いつしか人間の文化に興味を持ち、人間になりたがって…という設定があるんです。これを迎え撃つ地球側も戦闘員は人外のアンドロイドで、彼らも自らの意思と感情を持つ、持たないという葛藤があって…というような「なりたいロボット」全開の作品で、廃墟とロボットのスクラップに、心をつかまれました。
番号で呼ばれる鉄人よりもアストロボーイ(アトム)のほうがずっと人間(ボーイ)ですし、グローバルというか、海外の人たち、特に欧米の人たちにも理解しやすいのでしょうか。しゃべりもしないし感情も持っていない「あくまでロボット」には共感しにくい。ただ、巨大ロボットのメカっぽいのが変形したり合体したりするのは理屈抜きに好きだし…ということで巨額の製作費をかけて映画『トランスフォーマー』(ロボットじゃなくて宇宙人ですけど)を作ったのかなあ。巨大ロボットと怪獣がバトルする『パシフィック・リム』のようなウソみたいに日本的な世界観の超大作もありますが、巨大ロボットが物語の中心に立っている世界は間違いなく日本独特のものです。そうです。「日本の巨大ロボット群像」は、展覧会タイトルに「日本の…」とつけなくても問題はありません。海外にはこういう群像、ありませんから。「日本の…」とつけているのはわざと強調しているのでしょう。


ところで、わたしたち日本人は「鳥獣戯画」のむかしから、擬人化・キャラ作りは得意でした。民族的特技といってもいいくらいです。まんがやアニメのヒーロー・ヒロイン、怪物、怪人、妖怪、怪獣なんかの、ヒトガタのバリエーションをみても、民族的な才能なのは明らかです。キャラが主導でストーリーを紡ぎだす。日本で生み出された無数のキャラが世界を席巻している現状も納得です。コスプレまで伝染するとは意外でしたけど。アニメを実写化したくなる性癖の持ち主なら納得ですかね。
「あくまでロボット」の同類を、ロボット以外の日本文化でさがすとしたら、妖怪の一種である「付喪神(つくもがみ)」が近いかもしれません。ちょっと待って。『妖怪人間ベム』は「はやくニンゲンになりたーい」だったのではと反論されそうですね。でもね、ベムもベラもベロも彼らが活躍している町も、どう見ても日本じゃないでしょ。『妖怪人間ベム』は、ヒトが一番エライ世界、西洋文化の妖怪です。「オバケにゃ学校も試験もなんにもない」から人間よりも楽しいのが日本の妖怪なんじゃないかな。
「付喪神」は人間に長く使われてきた道具に精霊が宿ったものなのでロボットに近いような気がします。人間じゃなくて精霊がリモコンを動かしてるのでロボットではなくて妖怪なのですね。悪さもする。そもそも百年経った道具たちは人間になりたくて「付喪神」になったわけではないのです。人間なんぞ無視して神的な、妖怪的な、ヒトとは別の存在になったのだと思います。
それって日本のアニミズムでしょと言われてしまうとそれまでなんですが、そのうち古くなって、壊れて、役にたたなくなって、捨てられてしまうのが道具です。そんな道具を、神さまはさすがにちょっとおこがましいからと「付喪神」にする。モノに対する愛着は、職人的な気質から来るのかもしれません。「日本の巨大ロボット群像」を見ていると、そういう職人気質も感じてしまいます。ヒトとヒトは対立し、争いもするけれど、ヒトとモノはつねに幸せな関係だというような感覚があるのかもしれません。
さて、今回はずい分長くなってしまいました。お付き合いいただき感謝です。でもこんなふうにグダグダと書いてきて、やっと4、5歳のわたしがアトムではなく鉄人に惹かれた理由もわかった気がします。わたしは鉄人を操縦する少年探偵金田正太郎が好きだったわけではないのです。嫌いでもないですけど。あくまでもロボットの鉄人が好きでした。鉄人はロボットです。あんなに大きくて強いけれど、自分が持っているオモチャと同じモノです。たぶん、そのうち古くなって、いつか壊れて、最後は捨てられる。動いていない鉄人の絵を眺めていて、わたしはそれを知りました。だから大好きだったし、だから「ロボット」という響きに、郷愁をおぼえるのです。

(総館長 中山喜一朗)

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又兵衛本人もびっくりしてると思うよ

どーも。総館長の中山です。

おおむかし、新人学芸員になりたての頃、ひそかに四つの目標を立てたんです。①観覧者10万人以上の展覧会。②専門誌『国華』に論文。③立てても倒れない本を出版。④すごいお宝作品を発見。いやはや、われながらガキでした。しかしラッキーなことに10年もたたないうちに全部叶えられました。当時は、「…ということは、あとは余生だな」などと好き勝手に解釈し、好き勝手なことばかりしていたような気がします。
一番むずかしいと思っていた④の目標を叶えてくれたのが、いま古美術のコレクション展示室で開催中の「全部見せます!岩佐又兵衛《三十六歌仙》」で展示している「三十六歌仙絵(若宮本)」なんです。あれは学芸員になって4年たった1985(昭和60)年の正月のことでした。
「これ、近くの神社が放生会のときに公開した室町時代の歌仙絵らしいですが、どうなんでしょうか」とスナップ写真を見せてくださった宮若市在住の小田さん(当館に作品を寄託されていた)。そんな値打ちがあるのかしらという小田さんのお顔を今でも思い出します。ひと目見て「やばい!これ岩佐又兵衛かも。だったらすごいけど…」と心臓がバクバク。しかしそこはそれ、専門家ヅラして自重し、「そうですねえ。添え状からすると、和歌の筆者は室町時代の公家たちだということですが、絵のほうは画風からして室町時代まで遡らないかもしれません。でも江戸初期くらいはあるかなあ。いい作品だと思います。…あの、これ、その…実物を見られますかね」
調査が実現したのは5月15日。当時の若宮町役場の会議室。いろいろ事情があって、歌仙絵は神社ではなく町役場の収入役の金庫にながーいあいだ、しまわれていたんです。収入役や若宮神社の宮司斎藤さん、神社の奉賛会の会長だった有本さん、小田さんなどが見守るなか、わたしに同行してくれた先輩学芸員の田鍋さんとともに、けっこう古びて傷んでいる折本装の最初の表紙をおそるおそるめくりました。現れたのは御簾越しに描かれた後鳥羽院。

後鳥羽院・若宮本

ああやっぱり、これ又兵衛だと、また心臓がバクバク。36枚すべてを写真撮影したり採寸したりしたあと、「あのこれ、岩佐又兵衛の真作だと思います。又兵衛は江戸初期に活躍した有名な絵師で…」と黙って見守っていたみなさんに説明しました。みなさんキョトンとされてたなあ。
「いわさまたべえ? 誰ですな? …後藤又兵衛の親戚ですかいな?」
「アハハ。違います。織田信長に謀反した荒木村重の息子です」
それからめまぐるしく色んなことがありました。学会での発表。新聞の一面報道。NHKの番組制作。当館への寄託。一冊五万円の復刻版制作(千部完売)。全面的な修復。福岡県警のパトカーが先導してくれた里帰り展示。地元の温泉旅館に「三十六歌仙の湯」もできたりして…。
岩佐又兵衛の歌仙絵で36枚すべてがそろった二組目(一組目は埼玉県川越市の仙波東照宮にある重要文化財の扁額作品)として美術史界では全国的に有名になった若宮本が呼び水となり、永らく所在不明だった「三十六歌仙絵(旧上野家本)」が出現して首尾よく当館が購入したことは、なかでも大きなトピックだったと思います。これで全揃い三組中二組が福岡市美術館に収蔵されたわけですから。

柿本人麻呂・旧上野家本

ということで現在開催中の「全部見せます!岩佐又兵衛《三十六歌仙》」には、裏話がてんこ盛りです。若き日の傑作である旧上野家本と、名を成した晩年の若宮本が全部そろって展示されているのですから、見比べてみる絶好の機会です。描かれている歌仙の顔ぶれも表現も、全然違いますよ。それに、両方ともなかなか解けない謎もあります。
さて、摂津有岡城で城主荒木村重の落胤として生まれ、まだ二歳だったときに父村重が信長に反旗を翻し、乳母に背負われて攻め落とされる城から命からがら脱出した又兵衛は、信長と敵対していた石山本願寺に匿われて京都で育ちます。成長した彼は武門の再興をあきらめて絵師として生きることを選び、京都、福井、江戸へと活躍の場を移しながら、晩年は絵師としての名声を得ていくのです。
数奇な運命に翻弄された人生を送った又兵衛ですが、まさか縁もゆかりもない福岡(じつは結構あるのですが)で歌仙絵の両極ともいうべき自作がずらりとならべられているなんて、絶対にびっくりしてると思います。

(総館長 中山喜一朗)

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無言の会話

どーも。総館長の中山です。新年あけましておめでとうございます。

もう遠い昔のことです。わたしは神奈川県に住んでいて、バスで大学に通っていました。住み始めたころは、見なれない風景がめずらしくて、行き当たりばったりで通学の路線とは違うバスに乗り、知らない土地をのんびりと終点まで行って帰って来る、というような暇つぶしを何度となくしていました。ぜんぜん勉強してなかったんですね。

夏のはじめ、郊外のバス停から五、六人のご老人が乗って来られ、一斉に手話で会話をはじめられました。ときどき笑い声は聞こえますが、手話ですから静かな会話です。ですが、すごく早口でしゃべっていることや、こまかなニュアンスだってきちんと通じていることも見ていてわかりました。つまり、ワイワイやっているんです。おしゃべり好きのご老人たちだったのでしょうね。豊かな表情や手の動きに、言いたいことを伝えよう、表現しようとする意欲があふれていて、すごいなあと感心しました。これからみんなで久しぶりに繁華街にくりだして、それこそワイワイやりながら楽しい買い物でもするのだろうと勝手に想像してしまったことも覚えています。

美術館も、楽しいか楽しくないかは別にして、そこかしこで無言の会話がされている場所です。お客さま同士の会話ではありません。作品と観覧者のあいだにある無言の会話です。観覧者はそもそも美術好きで美術館に来ているのだから、「楽しいか楽しくないかは別にして」ではなくて、当然楽しい会話でしょと突っ込まれるかもしれません。でも、例えば年末までコレクション展示室(近現代美術室B)で展示していた戦後日本を代表する写真家・奈良原一高の作品などを見ていると、それこそ言葉では言いあらわせない、なんとも言いようのないものがモノクロ風景の向こう側から伝わってきて、単純に「楽しい」なんて言えなくなります。現在もコレクション展示室(古美術企画展示室)で開催中の「仙厓展」なら、これはたしかに楽しい会話になるかもしれません。それでも、やはり単純に楽しいだけではないと思うのです。

作品は、なにかを伝えるために生み出されたものです。そこに表されているものは、優れた作品であればあるほど、わたしたちのごく平凡で平均的な感覚から逸脱している。もともと言葉にできないから美術になるのだし。だから常識的な言葉に翻訳しにくくなる。そういう相手との無言の会話ですから、作品が「わからない」、美術館は苦手、というのもよくわかるのです。ただ、そんなわからない作品を作ったのもわたしたちとおなじ人間です。自然物には人間の作者はいませんが、美術作品の向こう側には必ずいる。そして作者は常に、作品からなにかを感じてほしいと願っている。もしも目の前の画面から、そういう「感じてほしいオーラ」が伝わってきたら、言葉にはならなくても、ほんの一瞬でもいいので、無言の会話を試してみてください。楽しくはないかもしれませんが、おもしろい可能性はけっこうあるんです。たとえば、驚かされ、ゾッとさせられ、胸が苦しくなり、それなのにきれいだなと感心させられ、なんだかほっとする、とか。これ、奈良原一高の「無国籍地」や「人間の土地」と無言の会話をしたわたしの素朴な感想です。

観覧者のみなさんとつながりたいのは作品だけではありません。いつも美術館の奥の方で、得体のしれない仕事をしている?みたいな学芸員も、つながりたいと思っています。展覧会の名前やごあいさつパネル、作品の並べかた、作品解説など、美術館の空間をカンバスとして、作品たちを素材として(えらく不遜ですが)、作品の作者とおなじように一生懸命なにかを伝えようとしている、または伝えようとあがいているのが学芸員です。つまりそこにも強い弱いはあるけれど、「感じてほしいオーラ」が漂っているはずです。作品の前から一歩さがって俯瞰してみて、そういう「感じてほしいオーラ」を運悪く感じてしまったら、今度は学芸員と無言の会話ができるかもしれません。そんなのしたくない? まあ、そう言わずに。

(総館長 中山喜一朗)

奈良原一高「無国籍地」/「人間の土地」 展示風景(2022年11月1日~12月27日)

奈良原一高「無国籍地」/「人間の土地」 展示風景(2022年11月1日~12月27日)

仙厓義梵《子孫繁盛図》
ちゃんちゃんの子がちゃんちゃんとなるからに ちゃんと其子もちゃんちゃちゃんちゃんちゃちゃん子孫繁昌

 

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